息子のソーラブちゃん(左)を囲み、ほぼ2ヶ月ぶりに 家族だんらんのひと時を楽しむアムリタ・チャチーさん (中央)とカラマタ・アリさん (ニューデリー市) |
十一月下旬、カラチからニューデリーに戻った私は翌日、アムリ タ・チャチーさん(42)と会い、夫のカラマタ・アリさん(51)から託 された「おしゃぶり」を手渡した。その後、インド南部のバングロ ールなど数都市を訪問。十二月上旬、彼女の家を再び訪れた。
「ここ数日は随分にぎやかだよ」。チャチーさんの父親スリンダ ー・シンさん(72)が、にこやかに言った。領海侵犯で逮捕された南 アジアの漁民問題協議のため、民間会議に参加していたアリさん と、先妻との間の二人の娘がカラチからやって来ていた。
「会議は成功だった。忘れられた漁民たちに初めて光を当てるこ とができた」。二日間の会議を終え、ホッとした様子のアリさん。 この日午後は、娘さんと一緒にニューデリー観光に出掛けてきたと いう。
「でもね、とても腹立たしいこともあったのよ」。息子のソーラ ブちゃん(3ツ)を抱いたチャチーさんが言った。「夫が空港で拘束さ れたの。十数回インドへ来てるけど、こんなこと初めてよ」 夫妻によると顛末(てんまつ)はこうだ。
インディラ・ガンジー国際空港の税関を通過しようとすると、係 官がコンピューターを見て、娘さんはいいが、アリさんは入国が認 められていないという。彼が「理由を知りたい」と抵抗すると、空 港内の警察署へ連行された。
汚い小さな部屋に三人が入れられる。電話連絡を受けたチャチー さんが空港へ飛んで行ったが、なかなか会わせてもらえない。五時 間後、何の説明もなく「入国の許可が出た」と解放される。 「ほんとにインド政府は何を考えているのか分からない。お嬢さ んたちにとって、初のインド訪問でもあったのに…」。チャチーさ んは、今でも腹の虫が治まらないというように一気にまくしたて た。
インドと聞けば漠然と「敵国」のイメージしかない娘たちは、空 港での体験に恐れをなし、二日間は家から一歩も外へ出なかったと いう。
会議に出て留守がちのアリさんに代わって、チャチーさんと彼女 の父親が、二人を温かくもてなした。ソーラブちゃんは、格好の遊 び相手だった。「インド人全部が悪い人間ばかりじゃない、という ことだけは分かってもらえたと思うけど…」
「私たちの間には何の違和感もない。幸せにやっている。両国の 緊張を持続させているのは政治家なんだ」。チャチーさんの言葉を 引き取るように、そばからシンさんが言った。
「印パの市民はもっと交流する機会を与えられるべきである」と 主張する彼は、こうも言った。「両国は軍備拡張に膨大な金を掛け ている。それによってどちらの国民も苦しんでいるだよ」。一線を 退いたとはいえ、元陸軍少将。こんな言葉を耳にするとは思いもし なかった。
今回の「事件」は、夫妻にあらためて将来への不安をもたらし た。何の説明もないままの入国拒否。もし、今後インドに来れない ようなことがあったら…。オランダ生まれで、インド市民権を持つ ソーラブちゃんの教育もそろそろ考えなければならない。
チャチーさんが講師を務めるオランダであれば、三人は何の障害 もなく一緒に暮らせる。しかし両国の関係や、それぞれの市民の暮 らしを良くしようと働いてきた二人には、一番避けたい結論なの だ。
「まだ妙案は浮かばないわ。でも、そのうち道は開けると思う の」。チャチーさんは、そう言って夫を見やった。
(田城 明編集委員)