研究所のスタッフとうちあわせするカラマタ・アリさ ん。(左から3人目)。「印パは過去の恩しゅうを超え なければ・・・」 (カラチ市) |
「十二月のニューデリー会議では、逮捕されている漁民や、家族 の窮状をあなたから証言してもらいたい」
カラチ市内にある非政府組織「パキスタン労働・教育研究所」の カラマタ・アリ所長(51)は、机の向こうの漁業組合職員(32)に語り 掛けた。
パキスタン取材も終わりに近付いた昨年十一月半ば。カラチに再 び戻った私は、アムリタ・チャチーさん(42)の夫アリさんにようや く会うことができた。
「労働問題だけでなく、漁業問題まで取り扱うのですか?」
「だれも助ける者がいなくて、相談を持ちかけられたら『知りま せん』というわけにはいかないからね」
打ち合わせを終えた彼は太い声で言った。すっかり白くなった 髪。学生時代の十代後半から労働運動や民主化運動に長年かかわ り、英国やオランダでも学んだ幅広い体験が、彼に落ち着きと風格 を与えていた。
人口一千万人以上に膨れ上がった現在のカラチ。しかし、アリさ んによれば、この大都市ももともとは漁民の町。今でも、アラビア 海では零細な漁民たちが盛んに漁をしているという。
「ところが、彼らには領海の位置がよく分からない。いつの間に か領海侵犯をしてインドの海上保安部に逮捕される。同じことはイ ンド側の漁民にも起こっているのだよ」
アリさんや地元の漁業組合の調べでは、現在パキスタンとインド の漁民それぞれ二百人近くが逮捕され、互いの刑務所に入れられて いる。長い人で三年余。敵国関係にあるだけに、刑務所では係官が 相手への憎しみを募らせ、拷問に及ぶことも少なくない。
「貧しい彼らは両国の政治家や官僚、治安当局から完全に見捨て られている。人権なんてあったものじゃない」。アリさんは語気を 強めて言った。
この問題の解決に向け、十二月初旬にはニューデリーで、初の民 間会議が開催される。会議には印パ両国をはじめ、同じ問題を抱え るスリランカやバングラデシュの漁業関係者らも参加する。
「印パ対立の悲劇は、山間部のカシミールだけに起きているんじ ゃない。海でも多くの人たちが、被害に遭っているのだよ」
「家族と自由に行き来できないあなたもその一人?」
「そう、そうだね…」
話が家族に及ぶと自然と目元がゆるみ笑みがこぼれた。
ラホールから南約二百キロの村で生まれた。父は営林署職員。十四 歳ごろから働きながら学んだ。チャチーさんとオランダで出会う前 年の一九八二年に「労働・教育研究所」を設立。スポンサーはパキ スタンとオランダの労働組合で、二十人のスタッフを抱える。
研究所が最も力を入れている労働者や子弟の教育には、このシリ ーズの一回目で紹介したウマ・アバスさん(42)も加わる。
「家族と一緒にいられないのは、むろん不自然で、寂しいよ。で も、今は互いにやる仕事を持っているから…」
十二月のインドでの会議には、前妻との間に生まれた二十三歳と 二十五歳の娘を連れ初めて訪問する。二人ともまだ学生である。 「今から楽しみだね。娘たちも新しくできた弟や祖父に会うのを 心待ちしている」
彼はそう言うと引き出しから小さな箱を取り出した。「これをア ムリタに渡しておいてくれないか」。一足先にニューデリー入りす る私に託したのは、赤ちゃんが吸う「おしゃぶり」であった。
「パキスタンの商品の方が硬くて息子が好むんだ。悪いけど、頼 むよ」