「長男や長女の家族と一緒に住める日が早く実現する ことを願っています」と話すサリマ・アバスさん。左は次 男のハッサンさん (バングロール市) |
「バングロールとカラチを行ったり来たり。いろいろあったけ ど、私にはやっぱりバングロールが向いてます」。サリマ・アバス さん(68)は、切れ長の大きな目を細めならがら紆(う)余曲折の人 生について淡々と語った。
バングロール市内で、二男のハッサンさん(42)夫妻と会った翌日 のこと。親類が経営する市北部の電器店に息子さんと現れた彼女 は、細身の体を薄緑色の清楚(そ)な民族衣装で包んでいた。 「年を取ると砂漠地帯のカラチの暑さがこたえてね。その点、高 原のバングロールはしのぎやすくて助かります。それに、子どもた ち二人もいるし…」
一九五五年、そりの合わなかったしゅうとめから逃れるため、三 人の子を連れ彼女の両親や兄弟がいるカラチへ旅立ってから四十余 年。この間に義母は亡くなり、夫も七三年に再婚した。
十七年ぶりにバングロールへ戻った七九年。サリマさんは、一歳 で夫の元に残し別れた二女と再会した。「見捨てたような形になっ た二女のことが一番気掛かりでした。でも、娘は私を許してくれま した」
やがてその二女が結婚し、最初の子どもが生まれた九四年、サリ マさんはインド政府から長期滞在ビザを取得。以来、二女の家族と 暮らしながら、職を持つ娘を助け二歳と、二カ月の二人の孫の世話 を続ける。
多忙の日々。そんな中で、ふと思い浮かべるのがカラチに残る長 男と長女の家族。「何とかこちらに戻れるといいんですが…」。サ リマさんは、彼方の子どもたちに思いをはせる。
バングロールからカラチへの旅は、列車が一番安価。しかし現在 は、パンジャブ州のワガ・アタリ国境を通過する週三回の列車便の み。しかも三日から四日も掛かってしまう。
インドのラージャスタン州とパキスタンのシンドゥ州を結ぶ列車 であれば一日半。が、その国境は第二次印パ戦争(65年)以来、閉 鎖されたまま。「せめてここを走る列車が再開されれば、どれほど 多くの人たちが助かるでしょう」と、サリマさんは言う。
カラチのインド領事館は、シンドゥ州の治安が悪化した九四年に 閉鎖された。インドへの入国ビザを取得するには、首都イスラマバ ードのインド大使館まで出向かなければならない。
しかも、かつて一日で七百―八百人分発給していたビザは、今で は一日七十人分程度。カラチからイスラマバード往復の運賃を払っ た上、すぐに発給されるかどうかも定かでない。
「長男や長女の家族には、それだけで大変な経済負担。インドへ の短期訪問だって、不可能に近いんです」
インドからパキスタンに移住したほとんどの人が、カラチやハイ デラバードなどシンドゥ州に住み着いた。サリマさん家族のように 両国に別れて住む家族は、六百万人以上とも言われる。
「二つの国は、ほんとに兄弟なんですよ。兄弟げんかのために、 どれほど多くの人たちが苦しんでいるか分からない」
率直に自分の思いを語るサリマさんの話を聞きながら、シアチン 氷河でインド兵と戦うパキスタン軍将校らの顔が浮かんだ。
死を恐れぬ彼らの勇気。しかし青年たちの勇敢な生きざまと、こ の母親との間に接点を見い出すのは難しい。
「私たちの望みは、早く両国が仲良くなって、ビザがなくても自 由に行き来出来ることなんです」
カラチに住む長男や長女の家族。彼らがバングロールに再移住で きないなら、せめて自由な往来を…。
サリマさんは、そのための一歩に、カラチとムンバイ(旧ボンベ イ)にあった領事館をそれぞれ再開し、ビザ発給の便宜と大幅な緩 和を両国に求める。