ニシャさんとともに息子のジュナイドちゃんの相手をする ハッサン・アバスさん。「インドの市民権が早く取れれば・・・」と願う (バングロール市) |
十一月下旬、パキスタンからインドへ戻った私は、カラチで会っ たウマ・アバスさん(46)の家族を訪ねるため、マドラス経由でバン グロール市に入った。
人口約五百五十万人。この二十年間で人口は倍増。コンピュータ ー産業など、今インドで最も発展している都市の一つである。 マドラスと同じ緯度にありながら、標高九百二十メートルのデカン高原 は空気もさわやかだ。あらかじめ連絡を取っていたウマさんの弟、 ハッサンさん(42)と市内のホテルで落ち合い、彼の義母宅へ向かっ た。
「二年前に結婚したんですよ。一歳の息子がいます」。スクータ ーの後部に私を乗せて走るハッサンさんは、いかにもうれしそうに 言った。生まれ故郷のインドへ戻ることばかりを願ってきた彼。 「パキスタン女性との結婚は入国の障害になる」と、それまで一度 も結婚を考えたことがなかったという。
二十分近く走り、市北部のイスラム教徒地区へ。アパート住まい の義母の家は、その一角にあった。
「いらっしゃい」。妻のニシャさん(31)が、長男のジュナイドち ゃんを抱いて迎えてくれた。「義兄に会ったそうですね。元気でし たか」。親の紹介でハッサンさんと見合結婚した彼女は、まだウマ さんとは写真でしか対面していない。
二人にカラチでの体験をひとしきり語った後、あらためてハッサ ンさんに「なぜ、それほどインドへ戻りたかったのか」と尋ねてみ た。
「二十歳のころから、自分がパキスタン社会にフィットしていな い、と感じてきた。インドでは違ったものがあるのでは…そう思っ て…」
最初に違和感を抱いたのは、中学時代。先生はいつも、「インド はわれわれの敵である。君たちも兵士のようにインドと戦う心積も りをしておかなければならない」と説いた。
しかし、彼には先生の言うことが納得できなかった。母親と一緒 にバングロールに戻り、一九六〇年から二年間過ごした六、七歳こ ろの楽しい思い出。別れた父親や妹もインドにいた。
大学時代は優秀なホッケー選手だった。「でも、インドからの移 住者には、ナショナルチームに加わる機会が与えられなかった」
パキスタンでは履歴を書く際、必ず父や祖父の出生地を記入しな ければならない。この欄があることで、二世や三世でもインドから の移住者であることが一目で分かる。「就職差別のためにあるよう なもの」と、ハッサンさんは移住者家族への差別の根深さを口にす る。
一方で半世紀前の分離独立時代に青少年期を迎えた六十代以上の 世代には、国の対立を超え個人的に深いつながりを持っている人た ちが少なくない、という。
「九二年に私がインド政府から長期滞在ビザを取得できたのもそ のおかげ…」
ハッサンさんによると、親密にしていたカラチ大学の元教授が、 彼の思いを知りムンバイ(旧ボンベイ)時代の大学の友人に手紙を 出してくれた。ヒンズー教徒のその友人は今、最大野党の「インド 人民党(BJP)」の主要幹部。その人が内務省に特別に働き掛け てくれ実現した。
ハッサンさんには、まだインドの市民権は与えられていない。今 は、二年前に妻が興した温室造りの会社経営を手伝う毎日。
「経済的にゆとりがあるわけじゃない。でも、ようやく心の平安 を見い出すことができた。それだけで十分幸せだよ」。彼はそう言 って息子を抱き上げた。