夜間学校の地元の責任者(左)から運営状況について聞くウマ・アバス
さん(右)。「貧しいけど勉強したいという子は多い (カラチ市) |
一九四七年の英国からの分離独立以来、インドとパキスタンに は、両国に分断されて住む多くの家族がいる。半世紀にわたるカシ ミール紛争などの対立ゆえに、自由な往来がままならぬ「近くて遠 い存在」の印パのつながり。二組の家族を通し、両国の密接な結び 付きと対立の影を探った。
(田城 明編集委員、写真も)
昨年十一月半ばの月曜夜。労働者や貧しい人たちを支援する非政 府組織「パキスタン労働・教育研究所」のウマ・アバスさん(46) は、カラチ市北部の貧民街にある夜間学校で、地元の責任者(35)か ら運営状況を聴いていた。二階建て民家の一階。ここが研究所主宰 の無料スクールである。
昼間、ゆで卵の路上販売などで家計を助ける六歳から十四歳まで の子どもたち約三十人が、午後六時から二時間、ウルズー語や算 数、英語を学ぶ。
地区住民は、ほとんどがアラビア海に面したインド中西部グジュ ラート州から、分離独立時代に移って来たイスラム教徒。学校に通 う子どもたちは、その二世や三世である。
「実は、私もインドからの移住者。でも、今は大半の家族がイン ドに帰って暮らしている」。視察後に出掛けたインドレストラン で、彼は別れた家族を懐かしむように言った。
アバスさんの生まれは、インド南部デカン高原の中央に位置する バングロール市。五五年、四歳で母親のサリマさん(68)に連れら れ、二つ違いの妹、二カ月になったばかりの弟と一緒にカラチに移 り住んだ。
「母がむごい扱いをする祖母に耐えられず、母方の家族全員が移 住していたカラチにやって来た」
バングロールなど南インドでは、分離独立時代、ニューデリーな ど北部一帯で起きた宗教的対立による虐殺などはほとんどなかっ た、という。しかし、人口の八〇%以上がヒンズー教徒のインド。 少数派のイスラム教徒の中には、「新天地」を求め移住した人たち も多い。
アバスさんの家族は全員パキスタン国籍を取った。ところが、六 〇年、電気技師として州政府職員となった父親からの「帰って来て ほしい」との呼び掛けに母が応じ、故郷へ帰る。
一年後に妹が誕生。だが、祖母が原因で父との関係もうまくいか なかった母は六二年、インド国籍の二女を残し再度カラチへ。小学 教師として働きながら、子どもたちをそれぞれ大学までやった。
大半の国民が小学校教育さえ受ける機会のないパキスタン。大卒 のアバスさんらは、社会のエリートだった。
「でもね…」と、彼は寂しそうに言った。「インドからの移住者 は、大卒であれ、この国に何年住んでいてもムハジル(難民)扱い なんだよ」
インドからの移住者の多いカラチなどシンドゥ州では、移住者と 元々この国に住むイスラム教徒との間に、激しい政治的対立が続い ている。互いにテロ行為に訴えるケースも少なくない。
政治活動に加わることのなかったアバス兄弟。だが、「パキスタ ン社会に受け入れられていない」との思いは常にあった。
そんな社会状況が「生まれ故郷へ」との思いを強めるのだろう。 弟は九二年、母親も二年後にインド政府から長期ビザを取得し、バ ングロールに再び帰った。
「独身の弟には長期ビザが発行された。でも、私や妹のような家 族持ちにはとても…」
アバスさんにはカラチ生まれの妻(36)と、四歳を頭に三人の子ど もがいる。インドに身内がいるとはいえ、長期滞在ビザを得るの は、両国の関係が正常化されない限り不可能だという。
「私も妹も、いつか帰りたいと思っているよ」。アバスさんは、 胸中を打ち明けた。