戸外で授業を受けるヒンズー難民の生徒たち。向こ うの校舎で学ぶ地元の公立中・高校の生徒との落差 はあまりにも大きい (ジャムー市) |
しかし、北から避難して来た多くのヒンズー教徒にとって、その 距離は国境を越え、異国に身を置く難民の厳しさがあった。この日 訪れた中・高校難民学校が、そのことを象徴しているかのようであ った。
ジャムー市中心部を抜け、空港通りを走る。途中、その通りから 少し入った所に、地元の公立中・高校がある。難民学校は、その敷 地内にあった。
「難民の生徒はどこで学んでいるの?」。校門の近くにいた制服 姿の男子生徒に尋ねると、校庭の隅を指差した。数本の大木が目に 留まる。が、よく見ると大人たちが大勢いた。近づくと、それは先 生たちであった。近くの木陰で、生徒たちが五つのグループに分か れ、授業を受けていた。
青空教室。写真で見た被爆後の廃虚跡で学ぶ広島の子どもたちの 姿が、ふと浮かんだ。 おしゃべりに興じている三十人近い先生。五分ほどすると、中肉 中背の紳士然とした校長が現れた。 バンシィ・ラルホウルさん、五十五歳。彼によると、この難民学 校は一九九〇年に設立された、という。最初は六百人近い生徒がい たが、ニューデリーなど他都市へ転出する子も多く、今では百二十 人余。それに対し、教師数は六十四人。学校に来ても授業がなく、 時間を持て余している先生が目立つのはそのためだ。
「州の教育委員会がテントや机を提供してくれているが、まだ不 十分」。ラルホウルさんは、遠慮がちに言った。が、校長の説明に 物足りない男性教諭から次々と声が上がった。
「テントは傷んで使い物にならない」「夏場は暑くて授業ができ ず、雨が降ると学校は休み」「飲料水もトイレもない。茂みで用を 足している」
半分壊れた机といす。小さな黒板。雨の日が多いため、授業は一 年に四、五カ月しかできない、という。このため、生徒たちは、必 要単位取得のため、通常より一―二年長くかかって卒業する。
「面倒を見てくれる親類がいて、よそに移って行ける生徒はまだ まし。ここにいる生徒の状況は悲惨です」。年配の教師が言った。
授業終了後、生徒たちから直接話を聞いた。この難民学校で六年 間学んで来た高校三年のサンディープ・ダーさん(18)は「同じ市民 なのに、なぜ僕たちはあの校舎で学べないのか。いつも悔しい思い をして来た」と、地元の生徒が学ぶ新しい校舎を見やった。
何を聞いても、悲観的な言葉だけが返って来た。故郷へ戻る可能 性について尋ねると、「カシミールのイスラム教徒は、みんなパキ スタン人だから」と、口をそろえ、周りの教師たちまで首を横に振 って同意した。
州内での差別、過酷な生活状況、情報不足…。こんな要素がいく つも重なり、ものの見方まで歪めてしまうのだろうか。
ジャムーの地元民の間では、働かずに政府から米や砂糖の配給を 受け、一家族千八百ルピー(約六千三百円)を毎月もらっているカシミ ールの難民は恵まれている、という声すらある。
難民以上に貧しい人たちが多いインドにあって、そんな声が上が るのも不思議ではない。が、それはカシミールのヒンズー難民にと って、風当たりの強さを示すものではあっても、何の解決にもつな がらない。