昼間も薄暗いビルの地下で暮らすヒンズー難民。まともなトイレも
なく生活環境は劣悪である (ジャムー市) |
「インド地理調査院難民キャンプ」。奇妙な名前のキャンプは、 畑や河原などの空き地を利用したものでなく、ビル全体がそうであ った。一九九〇年四月、カシミール盆地からジャムーに避難し、行 き場を失ったヒンズー教徒が、地理調査目的に建築中の政府ビルを 占拠し、居ついてしまった、というわけである。
地下一階、地上四階。むき出しのコンクリート。窓には布がかか り、何本もの電線が垂れ下がる。どう見ても三十年以上過ぎた老朽 ビルにしか見えない。
前の空き地でクリケットをして遊ぶ子どもたちの間を抜け、中庭 へ。たまった水が悪臭を放つ。至るところに牛のフンが落ちてい る。
地下に下りると七世帯が、布で区切りをして暮らしていた。昼間 でも薄暗い。病人が一人寝込んでいる。そのそばで、女性がなべを 洗っていた。
一階から二階へ。どの階段にもごみが散乱する。布で仕切った五 十センチ幅の通路を奥まで行く。そこだけが比較的部屋が広く、日当た りもよかった。大きなベッドに座り、英語の達者なモハン・ラル・ パンディタさん(56)の話を聞いた。
「パキスタンが支援する代理戦争のために、私たちの生活は根こ そぎ破壊された。パラダイス(天国)からヘル(地獄)とは、この ことですよ」。はけ口のない怒りをぶちまける。
パンディタさんの故郷は、スリナガルの西七十キロのバラムラ地区 にある人口四百人のカチュワムカン村。中学で教える傍ら、小麦や 野菜、果樹栽培などの農作業にも汗を流した。
ところが、九〇年三月末、村のイスラム教のモスクから「ヒンズ ー教徒は二十四時間以内に村を立ち去るように」との放送が流れ た。近所のイスラム教徒たちは、自分たちが守るから出て行かない ように、と説得した。
「でも、武装ゲリラに襲撃されたら、命の保証はない。村のヒン ズー教徒十五家族が連絡し合って、翌朝二時に家を出、山越えをし てバラムラ市に脱出した」
パンディタさんらはそこからバスに乗り、半月後にようやくジャ ムー市に着いた。一緒だった十五家族は、それぞれ違ったキャンプ に向かい、ここに残ったのは彼の家族五人だけ。現在、この難民ビ ルには、カシミール盆地の各地から避難した二百二十五家族、千人 余が住む。
七年前まで仲良く暮らして来た村のヒンズー教徒とイスラム教 徒。「その宗教を毒してしまった」と、パキスタンを非難するパン ディタさんの憤りは、難民の処遇に対するインド政府や役人へも向 けられていた。
「カシミールのヒンズー教徒には、一切職を与えようとしない。 エンジニアも、医師も、教師や他の州政府役人も…。仕事をしたく ても拒否されるのだ」
教育レベルの高いカシミールのヒンズー教徒に職の機会を与える と、やがていい地位に就き、カシミールに帰らなくなってしまう。 仕事が得られない背景には、そんな事情が潜んでいた。
州職員の地位を保っているパンディタさんには毎月、給料は出て いる。しかし、わずかな給料では食べてゆくのが精いっぱい。外出 することもままならない。
最悪の住環境、無為に過ぎ行く時間…。果たせぬ帰郷に失望とい らだちが募る。
「もう脳に穴があいて、むしばまれているよ」。パンディタさん の悲痛な声が、耳元から離れない。