テロの犠牲生活一変/夫を亡くして


難民キャンプで6年暮らすウシャラニ・ダッタさんと 子どもたち。「女同士でおしゃべりして憂さを晴らすだけ・・・
(ジャムー市)
 ジャムー・カシミール州の南部に位置するジャムー地方。カシミ ール、ラダックと二つの地域を訪ねた私は、最後にニューデリー経 由でジャムー市に入った。

 人口約七十万人。商業地区の都心部を除くと、肥沃な土地を生か した農業が主産業。十一月から四月までの冬場の半年間は、三百キロ 北のスリナガル市から行政機能がこちらに移る。

 ジャムー地方の人口の六五%は、ヒンズー教徒が占める。治安が 比較的安定していることもあり、カシミール盆地で、イスラム教徒 の反政府ゲリラ活動が活発になった一九八九年末以後、一、二年間 で大量のヒンズー教徒がジャムーに避難した。現在、市内とその周 辺の十カ所の難民キャンプに、二万八千世帯、十四万人が住むと言 われる。

 そんな一つ、ジャムー市東十キロにあるムティ難民キャンプを訪ね た。畑の中に、ブロックを積み上げて造った長屋が続く。五百家 族、二千人の居住地。中に入ると、長屋を区切る狭い路地いっぱい に、神聖な牛が悠然とかっ歩していた。

 一人の女性に会った。ウシャラニ・ダッタさん(36)。インド政府 からあてがわれた家は、家族の人数に関係なく、六畳ほどの一部 屋。コンクリートの床を薄い布が覆う。入り口そばに並ぶ炊事道 具。奥にベッドが一つ。古いテレビとロッカー、壁には夫の遺影が 掛かる。

 「イスラム教徒の武装グループに主人が殺されたのは九一年一 月。涙を流す間もなく、三人の子どもを連れジャムーに逃げて来ま した」。ピンクのドレスにブルーのショールを巻いたダッタさん は、当時の恐怖を思い出すように言った。

 十六歳で結婚。夫のバルデオラージさんは、映画館の撮影技師。 スリナガルで幸せな生活を送っていた。が、イスラム教徒の反政府 武装活動が強まった九〇年、「映画はイスラム文化に反する」と、 映画館が閉鎖された。

 その後は、テレビの修理などをして生計を立てていた。翌年一 月、知人のイスラム教徒に「テレビの修理をして欲しい」と頼まれ て外出。翌日、近くの空き家で夫の死体が見つかった。三十五歳だ った。

 「夫を銃殺した相手は、加わっていた武装ゲリラの所在をインド の治安部隊に密告されるのを恐れて殺したのです」。ダッタさん は、そう推測する。

 財産を無くし、稼ぎ手を失った彼女は、政府から支給される一カ 月千八百ルピー(約六千三百円)の生活保護手当が唯一の収入。ポリ オで足が不自由な長女(18)の治療費もままならない。

 「夏場は温度が五〇度近くまで上がるんです。もう地獄です」。 安心して飲める飲料水もなく、子どもの教育も十分にできない。多 くの若者が失業し、ドラッグやギャンブルなども広がっている。 「でも、ここを出て収入がなくなることを思うと…」。ダッタさん は、あきらめの表情を浮かべた。

 同じキャンプで、夫が武装グループに殺された三十五歳と二十五 歳の子持ちの女性に会った。ヒンズー教社会では、今も女性の再婚 は容易でない。「夫の死は妻の責任」と、かつては妻を生きたまま 焼き殺す「サティ」という風習さえ残っていた。

 「再婚はしたいけど、とても親には言えないですよ。今は子ども の成長だけが楽しみ…」。三人の女性は異口同音に言った。

 ダッタさんらは、自らの置かれた状況を「カルマ(宿命・業)」 と受け止めていた。諦(てい)観。それのみが彼女たちの心を救済 しているようであった。


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