スタッフと仕事の打ち合わせをするバジール・マンザーさん(右)。
「身の危険はいつもある」 (スリナガル市) |
経営のためになりふり構わず広告料を取っているのだろうか。そ んな疑問を抱きながら、市中心部にほど近い新聞社を訪ねた。
銃を構えた三人の保安員が、玄関に立つ。二階の四畳半余りの部 屋に通されると、経営者で編集長のアマッド・カルーさん(36)が、 迎えてくれた。
一九八八年五月の創刊。現在の発行部数、約二万部。編集長を含 め二十七人のスタッフ、うち記者は九人である。新聞社の概要説明 を受けた後、早速、彼に疑問をぶつけてみた。「広告料?せめてそ れでも取れればね」。カルーさんは、苦笑いを浮かべて言った。 「現実はまったくの無政府状態。彼らの要求をのまなければ、新聞 の発行はおろか、命の保障もない」
九年近い新聞発行で、順調だったのは、最初の二年足らず。ジャ ムー・カシミール州のインドからの独立を求める武装ゲリラの活動 が激しくなった九〇年からは「あらゆる困難に直面している」と嘆 息した。
武装ゲリラの要求は、彼らの声明の全面掲載。「なぜ載せないの か」と九三年には、独立派の一つのグループに襲撃され、コンピュ ーターなどの高価な機器一切を略奪された。九四年になると、政府 側に寝返った武装グループが生まれ、翌年七月、副編集長のバシー ル・マンザーさん(35)がその一派に誘拐された。
「十数人の青年にガンを突き付けられ、車に押し込まれた。目隠 しをされ、二時間ほど走って、彼らのアジトへ連れて行かれた」 編集長のそばにいたマンザーさんが、その時の体験を語ってくれ た。誘2}理由は、このグループのチーフ・コマンダー(総指揮官) の声明を短くして掲載したことだった。
銃を持った数人の男が入れ代わり部屋に入って来た。「要求に従 わなければ、お前を殺す」。言葉での脅しが続いた。「出版の自 由」を口にして、通じる相手ではなかった。
「二日間は本当に殺されると思った」。マンザーさんは、身ぶり を交えながら続けた。「三日目の朝、わが社だけでなく、地元記者 がゲリラ側と接触を図っていることを知った。もしかすると、助か るかも…」
スリナガルで取材活動する四十二人のジャーナリストが連名で釈 放を要求し、地元十紙の編集長が総指揮官の声明全文を掲載する契 約を交わした三日目の午後、ようやく解放された。
しかし、マンザーさんは、今もあの時の恐怖感をぬぐえないとい う。「いつ同じことが起きても不思議ではない。当時と状況は変わ っていないのだから」。現在、政府側、反政府側の約二十の武装組 織から、計三、四通の声明が毎日、ファクスなどで届いている、と も。
妻と子ども三人。給料も三カ月の遅配が続く。命を危険にさらし ながら、なぜ新聞を発行し、書き続けようとするのか。
「ガン・カルチャーの下で苦しんでいるのは、圧倒的多数の声な きカシミールの民なんだ。今、逃げ出して、平和が戻った時に『書 きたい』と、どんな顔で向き合えますか…」
マンザーさんは、力を込めて言った。同じジャーナリストとして マンザーさんらの勇気に敬服しながら、目の前に続くいばらの道を 思う時、掛ける言葉もなかった。