戦闘と略奪いえぬ傷/小さな村


稲を運ぶため田んぼへ向かう少女たち。「紛争のない 平和な村で暮らしたい」と彼女たちは願う
(ポシュポラ市)
 インド政府軍に協力する武装グループと別れた私は、クプワラ市 から西へさらに二十キロのポシュポラ村へ向かった。人口五百人のそ の村は、かつてインド軍によって略奪を受け、女性たちが暴行を受 けたと国内のマスコミでも取り上げられていた。

 でこぼこ道に悪戦苦闘しながら一時間以上かかってようやく村に たどり着く。山あいに広がる田んぼで収穫した稲を、男も女も背や 頭に束ね家まで運んでいる。十歳ぐらいの少女も貴重な労働力。大 人に負けないほどの稲束を頭に乗せると、色白の愛らしい顔は完全 に隠れてしまった。

 村の入り口にある小さな雑貨店を訪ねる。五十代半ばに見える店 主は、「何が起きているのか事実を知りたい」と告げると、口を極 めてインド軍やヒンズー教徒をこきおろした。

 「やつらはイスラム教徒を全員殺そうとしている。インド政府の 言うことなど信用できない」。尋ねるほどに怒りで感情を高ぶらせ る彼からは、具体的な話は聞けなかった。

 集まって来た男たちの一人が耳打ちしてくれた。「息子がインド 軍に殺されているから…」

 村の青年たちが、亡くなった息子さんの墓へ案内してくれた。小 川を越え、小さな果樹園の片隅に埋葬されたその墓は、緑の草に覆 われ、花に囲まれていた。

 「ザフール・バット 一九九六年七月十四日死亡 二十五歳」。 ウルズー語の墓標には、こう刻まれていた。ジャムー・カシミール 州のインドからの独立を求める武装ゲリラに加わっていた彼は、隣 村でのインド軍との七時間に及ぶ交戦で死亡した、という。

 農道に戻ると、仕事の手を休め田んぼからやって来た一人の村人 が近づいて来た。サンダル履きに白い民族服、イスラム教徒が被る トピー(帽子)も着けている。

 ウディン・バットさん。五十一歳。「LECTURER(大学講 師)」だと自己紹介した彼は、英語が自由に話せる村の知識人であ る。広島からのジャーナリストだと知ると、「私たちがどんなに平 和を求めているか、広島市民や日本人みんなに伝えてほしい」と、 穏やかな口調で言った。

 九〇年から九六年の半ばまで、周辺の村々はほとんど武装ゲリラ に支配されていた。インド軍との攻防の中で、村人はあらゆる横暴 にただ耐え忍ぶしかなかった、という。

 「インド軍も武装ゲリラも、男たちを拷問し、女性たちに暴行を 加えた。食料や金目の物はすべて略奪された。どちらもあらゆる犯 罪をこの地で犯し、私たちを苦しめているのです」

 話が宗教に及ぶと、バットさんは「あなたの宗教は何か」と問い 掛けて来た。私は正直に、仏教徒の家に生まれたが、恥ずかしいほ ど不熱心な仏教徒だと答えた。すると彼から思いも寄らぬ反応が返 って来た。

 「宗教を信じない人たちが、最もいい人間です。インド軍もゲリ ラも、宗教と自由の名において犯罪を犯しているのですから…」

 そして彼は、つけ加えた、「HUMANITY IS  THE BEST RELIGION(人間愛こそ最良の宗教で す)」と。

 人々の苦しみや悲しみを救済するはずの宗教が、逆に人々を苦し めている現実。多くの絶望をたっぷり味わいながら、人間愛を失わ ない彼の温かさ。熱いものを覚えながら、夕焼けに染まる村を後に した。


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