原点の声に世界が反応 核爆発実験、追放進む
ポスト被爆五十年へ踏み出した一九九六年。原爆ドームの世界遺 産化が決まり、ヒロシマは平和拠点としての新たな責務を負った。 核兵器を「一般的に違法」とした国際司法裁判所(ICJ)の判 断、包括的核実験禁止条約(CTBT)の採択など、核軍縮への動 きが加速した。
ドーム 世界が共有 評価割れたCTBT・ICJ勧告
十二月初め、原爆ドームは厳島神社とともにユネスコの世界遺産 への登録が決まった。六〇(昭和三十五)年、白血病で十七歳の生 涯を終えた少女の日記をきっかけに保存運動が始まった「負の遺 産」は、撤去の危機をしのいで被爆の惨禍を訴え続け、三十六年後 に世界共有の財産となった。
ヒロシマの核兵器廃絶への願いが前進した一年でもあった。一 月、フランスのシラク大統領が前年再開した地下核実験の終結を宣 言。七月には、中国が凍結を発表した。いずれも国際世論の非難を 無視して実験を強行した後の幕引きだったが、核爆発実験はいった ん終わりを告げた。
平岡敬広島市長は五月、伊藤一長長崎市長とともにCTBT交渉 の場であるスイス・ジュネーブを訪れ、核保有国など八カ国の軍縮 大使に抜け道のない禁止を要請。九月には、あらゆる爆発を伴う核 実験を禁止する条約が国連総会で採択された。しかし、核廃絶への 日程明記を求めるインドが反対し、インドと対立関係にあるパキス タンも署名しないまま。発効のめどは立っていない。
核兵器の違法性を審理していたICJは七月、「核兵器の使用と 威嚇は一般的に国際法に違反する。しかし、国家の存亡にかかわる 場合には違法かどうかの判断は出来ない」との勧告的意見を出し た。六三年十二月に東京地裁が「国際法違反」との判断を示してか ら三十三年後だった。
CTBTとICJ勧告のいずれも、「一歩前進」「不十分」と、 ヒロシマの評価は割れた。核実験のたびに平和記念公園で抗議の座 り込みを続けてきた被爆者たちは九月、原爆慰霊碑を背にしたスタ イルを変え、初めて慰霊碑に向かって座り、死没者にCTBT採択 を報告した。座り込みは二十三年間で五百回を数えた。 八月六日の広島市原爆死没者慰霊・平和祈念式には、橋本龍太郎 首相をはじめ、約五万人が参列。平岡市長が「平和宣言」で核兵器 使用禁止国際条約の実現と非核武装の法制化を強く求めた。被爆の 実相を伝える原爆展は、一〜二月に市民グループがフランス・パリ で、広島市が八〜九月に新潟市と米国コロンビア市で開き、大きな 反響を呼んだ。