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 比治山橋のたもと

 「私を見て」決意の証言

(2006.7.3)

 広島市東区に住む高野由子さん(73)は、今でいう中学一年生の夏、取り壊された家屋などの後片付けをする建物疎開作業に学徒動員されていた。

比治山橋を背に「8月6日」を語る高野さん。「被爆者としての苦しみ、悲しみは最期までぬぐい去れないと思います」(撮影・今田豊)

 「木切れを集めて立とうとしたらピカッと光ったんです。もう少し下を向いていたなら、こんな傷にならなかったんでしょうけれど」。爆心地から南東約一・五キロの昭和町(中区)。おかっぱ髪の顔から全身に閃光(せんこう)を浴びた。

 原爆投下三カ月後の一九四五年十一月に米戦略爆撃調査団が撮った記録写真を見ると、昭和町そばを流れる京橋川に架かる比治山橋の欄干の一部は落ちている。原爆のすさまじさが刻まれた親柱が今も残る。

 ■変わらぬ思い

 高野さんは、求めに応じて橋のたもとに足を運び、「八月六日」を淡々と語った。

 気がつくと、帯しんで縫った持参のかばんをなぜか探していた。「よっちゃん」。友達の呼び声でわれに返る。指先でほおをさわると皮膚が付いた。両腕を見たら皮膚ごとぶら下がっていた。迫り来る火の手を市内電車の軌道沿いに北へ逃げた。「この下に子どもがいるんだ!」。父親の叫び声が聞こえてきた。

 「だれも逃げるのに必死で耳をかそうとせず、お友達も亡くなり、私は顔を焼かれ…」「二度とあのようなことがあってはならない。(運動の)一線をとうに離れていても、その思いは死ぬまで変わらないでしょう」

 旧姓は村戸由子さんという。彼女は被爆者運動を語るうえで欠かせない、数少なくなった健在者の一人である。

 被爆から十年後の五五年に初めて開かれた原水爆禁止世界大会。村戸さんは、平和記念公園に完成間もない市公会堂を埋めた海外からの参加者を含む約千九百人を前に、「この私の姿をごらんになってください」と身をもって被爆の実態を証言した。前年の米水爆実験によるマグロ漁船第五福竜丸(乗組員二十三人)の被曝(ひばく)を機に、核の恐怖への関心が庶民レベルで高まった。戦争の記憶が濃かった。

 同時に、被爆者の存在と援護の必要性が東京のマスコミ報道や識者の論陣も通じて広まり、ようやく目が向けられる。

 それを弾みに翌五六年五月、広島県原爆被害者団体協議会が結成され、その年八月に長崎市で日本原水爆被害者団体協議会の誕生となる。母体となった広島県被団協は「切なる願いは、全被害者が『生きていてよかった』と思い続けられ、われわれのような体験を二度と全人類に味(あ)わせないことである」(結成総会資料)と掲げた。

 ■映画の題名に

 この「生きていてよかった」とのフレーズは、廃虚からの復興が先立つ中で、孤立していた被爆者の心境と新たな決意を示すものとなった。両被爆地で五六年にロケをして、翌年の原爆医療法制定への世論をもり立てた亀井文夫監督の記録映画の題名にもなって知られる。

 広島県被団協の結成に奔走し、日本被団協の初代事務局長を務めた藤居平一さん(九六年死去)は生前、広島大原爆放射能医科学研究所の「資料調査通信」(八二年二月号)の聞き書きで映画製作に絡み明かしている。「生きていてよかった」は、「村戸由子さんが、世界大会の中でポツッと言った」。

 世界大会に続く国会請願、被団協結成、原爆医療法の適用、欧州での証言…。被爆者運動の起こりから広がりを伝える各紙記事には「原爆乙女の村戸さん」の記述がある。やがて広島も高度経済成長に沸き、五十万人都市となった六五年を機にマスコミの前からは消えた。

 今回捜し当てると、「平凡だが穏やかな日々」にさざ波が立つのを案じた。それでも「藤居先生や皆さんのおかげで今の私があるのですから」。慰霊の意を込めて長年の沈黙を破った。子どもにもこれまで詳しく語ったことはなかった。

「生きていてよかった」

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