激動の昭和を聞き書き
|
「『手づくりの家』に住んだ。比治山は格好の遊び場だった」と岡村さん。あの日、父母たちは後方の京橋川に沿って避難した=広島市南区比治山公園(撮影・安部慶彦)
|
まだ防空壕(ごう)が残る比治山公園の木々の間に「すみか」をつくり、ポンポン船で京橋川から広島湾へ出てオコゼを釣る。メルボルン五輪(一九五六年)のラジオ中継を聴いて「オリンピックごっこ」に熱中した。被爆から十年、復興する広島に映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような子どもの王国があった。
東京都世田谷区代田の会社社長岡村有人(くにと)さん(59)は広島市南区比治山本町で育った。「団塊の世代」のはしり。一クラス六十人いて、同じ学年には胎内被爆の子もいた。「原爆の後遺症で父親が寝込んだ級友のために一人十円ずつ集め、バラックの家へ見舞いに行った。私の父は、戦後十年たって体内から出てきたガラスの破片を見せてくれたりしてね」
「ピカ」の痕跡
日常の中にあった「ピカ」の痕跡。両親から何度も聞いた一家をめぐる激動の昭和。岡村さんは昨年、その家族史を「七つの川は銀河に届け―父岡村〓人 被爆と復活の軌跡」(国際商業出版刊)に書き留めた。
徳山市(現周南市)長穂出身の父〓人は被爆当時、広島文理科大(現広島大)で淡水真珠を研究する学生。戦後結婚する妻敏子さん(82)の広島市昭和町の実家に縁あって下宿し、あの朝、〓人、敏子さん、敏子さんの父で元中国新聞記者の入沢涼月、母ミツノの四人はそこで被爆した。
けがで済んだ四人は京橋川沿いを南へ逃げ、御幸橋にたどり着く。けが人であふれる救護所を目の当たりにし、陸軍船舶防疫部が被爆者を収容した似島へ。十日までの五日間、重傷者を看護したり、知人を捜したりしながら、この世の地獄を見た。
そのころ、郷里では〓人の葬儀が営まれていたが、その父幸作はあきらめ切れず広島市内に入り、被爆後に四人を目撃した人に出会って奇跡を信じる。四人は似島から帰り、〓人は帰郷。仏壇の自分の写真に驚いた―。
手づくりの家
岡村さんが生まれた一九四七(昭和二十二)年、〓人と敏子さんら一家は比治山公園のふもとに自宅を建てる。基礎や大きな木組みは職人を頼んだが、あとは手づくり。「セメントを建材店で仕入れ、左官仕事までしたそうです」。家族も街もよみがえる。そこからは自身の記憶につながってゆく。
岡村さんは二〇〇三年、副社長を務めた米国系オーディオメーカー、ボーズを退職し、経営コンサルタント会社を創業。やっと自分の時間が持てた。長男龍さん(17)に父母たちのことを教えておきたいと思い、被爆六十年を目標に敏子さんたちから聞き取りを重ねた。もう一度話を聞くべきだった〓人が九九年、七十六歳で急死した悔恨の念も、背中を押した。
父母は幼いころから岡村さんにあの日々の記憶を語り、爆心で拾った表面が溶けた瓦を大切に保存していた。「でも、ほかの人には語っていない。私が書き留めなければ消えてしまう」。そんな気持ちもあった。
岡村さんは今、「七つの川は…」の英訳出版を考えている。仕事柄、米国の人たちに会う機会が多く、原爆投下について「正しいことをした」という意見によく遭遇した。「今のままでは原爆はローカルな話題。感情を排し、政治やイデオロギーを超え、人道の立場から共通言語で発信することに日本人はもっと努力すべきでしょう」
家族史から始まり、家族史から一歩踏み出す。そんな作業も始まろうとしている。(文中、故人は敬称略)=おわり
【編注】〓は土に下が口という漢字ですが、JISコードにないため表示できません。