証言映像もネットで公開
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御幸橋を訪ねた池田義三さん(左)、眞徳さん父子。「けが人たちがトラックにすがりついてきたんや」と義三さん=広島市中区東千田町(撮影・田中慎二)
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「ヒロシマの九日間」(文芸社刊)。東京都武蔵野市の会社員池田眞徳さん(55)が、父義三さん(79)=大阪府和泉市=の被爆手記を題材にした小説だ。その表現手法は活字にとどまらず、専用のホームページを開設して出版のいきさつ、義三さんの証言映像、発行後に判明した訂正個所などを公開。読者も感想を書き込めるようにした。
眞徳さんは「きちんと伝えるのが聞く側、書く側の誠意。今なら父や父の戦友が正してくれます。いずれそんな人もおらへんようになるんでしょうが」と考える。
上陸後に被爆
当時、陸軍船舶特別幹部候補生だった義三さんは、江田島(現江田島市)で特攻艇「マルレ」の訓練中だった。八月六日早朝、軍需物資調達の命令を受け、広島市宇品町(現南区宇品西)に上陸。トラックを待っている間に被爆したが、無傷だった。
トラックは直ちに中心部へ走った。御幸橋付近で「兵隊さん、助けて」とすがりつく避難民に遭遇して立ち往生。重傷者を乗せて宇品港(現広島港)へ引き返し、午後一時ごろ、江田島へ帰営した。消火作業を命じられ、午後六時ごろ、再び上陸。七日早朝までそれに従事し、その後は大手町、紙屋町、八丁堀などで十四日までの九日間、おびただしい数の遺体を焼いた。
戦後、義三さんは郷里の大阪府泉大津市で文具商を営む。一九七九(昭和五十四)年に原爆手帳を取得したが、広島に足を向ける気にはなれなかった。「今も窓を閉めんと夜寝られへん。怖い。あの光景を思い出しとうない」。戦友たちの手記も、読むことはほとんどなかった。
しかし四年前、近くの天台宗の古寺に参り、涼風にまどろんでいて、ふと被爆者の声を聞いた気がした。当時は脳梗塞(こうそく)から回復途中の身。自身の「死」を思い始めていた。いたたまれなくなり、六十年近く前の体験をメモ。ワープロに向かい、一年かけて二百ページの手記に仕上げ、製本した。
その時は出版の話はなく、眞徳さんは「おやじが死んだら、通夜の席で披露しよう」と思っていたが、昨年九月、書棚に納めた手記をあらためて読んでいて突然、自分なりの小説に仕立てようと思った。父への共感だったのか、息子としての義務感だったのか、何かが背中を押した。
「ヒロシマの…」では義三さんが実名で登場する。しかし、あえて創作も交えた。義三さんは被爆してけがをした二十代の女性を背負う。ここまでは事実だが、六十年後、原水禁運動に参加するこの女性と偶然、手紙のやりとりが始まり、再会を約束するエピローグは創作。悲惨な事実の中で希望の持てる物語を、と眞徳さんが考えた。
義三さんは今年一月と七月、眞徳さんの取材などに同行して戦後初めて広島を訪れた。原爆資料館を見学し、あの日、救援に入った爆心を路面電車の中から眺めた。
展示に違和感
「きれいすぎる」。義三さんは資料館の被爆の惨状を再現した展示を見て、こうつぶやいたという。「不思議なくらい何の感情もわいてこない。現実と記録にあまりにも大きな差があったから」。そんなメモを眞徳さんに書き送った。
眞徳さんは「体験した者にしか分からない、体験しない者には表現できない、そんなこともある」と感じる。それが分かったことも出版の収穫だった。今はそう思う。(佐田尾信作)