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4:武器なき鵬程一萬浬−特別輸送艦長の手記
   敗戦処理 船乗りの苦渋


「最後の任務」妻が出版
「日記は続かない人。手記を残したのが不思議です」。夫の遺影の前で語る荒木郁代さん=広島市中区大手町の自宅(撮影・福井宏史)

 この本は時には屈辱に耐え、明日に希望をつないだ敗戦処理の記録である。人は引き際こそ真価が問われるのだろう。

 「武器なき鵬程(ほうてい)一萬浬(まんかいり)―特別輸送艦長の手記」(高知市・南の風社刊)は、太平洋戦争敗戦後の一九四六(昭和二十一)年、駆逐艦の武装を解いて昨日までの敵国に向かった復員輸送艦「宵月(よいづき)」の航海の記録だ。戦後、手記に書き残していた当時の艦長荒木政臣は七六(昭和五十一)年に六十九歳で病死したが、妻郁代さん(91)=広島市中区大手町=の手で昨年、出版された。

 「主人は戦後は七社ぐらい会社を替わりまして…。朝起きないので聞くと、きのう社長とけんかして辞めた、って言うんですの。苦労した時代でしたが、手記を書いていたのは気づきませんでした」。郁代さんは「私も九十歳を超えまして…」と出版の動機を語る。

 日の丸降ろす

 広島市生まれで旧海軍兵学校を卒業した荒木は、砲艦や駆逐艦に乗り組んで中国戦線や南方戦線へ。呉鎮守府所属の駆逐艦「宵月」の艦長として、広島湾で敗戦を迎えた。航海能力のある船体が無傷で残ったため、引き続き艦長にとどまり復員輸送の仕事に従事する。

 宵月は四六年二月十四日に呉港を出港し、ラバウル(現パプアニューギニア)とシドニーに寄港。台湾人軍人・軍属や朝鮮人軍人・軍属を台湾・基隆と韓国・釜山にそれぞれ送り届け、三月二十六日、帰港した。

 手記は随所に敗戦国の苦渋をにじませる。シドニーでは、掲げていた日の丸を降ろし、艦の舷側の日の丸も消すようオーストラリア政府に指示される。連合国軍総司令部(GHQ)の許可は得ていたが、「已(や)むなく余は之を承諾せり」と記述する。この時は無線の発信や乗員の上陸も不許可。居住性に乏しい艦内に千人を超す帰還者を収容していたため、当地の新聞で非人道的だと非難を受けた。

 一方、近海を航行する米艦船から現在地を発光信号で問われ、速やかに返信。道に迷った者がいれば親切に教えるのが「国際情誼(じょうぎ)」であり、「眞(まこと)に良き陰徳なりき」とつづる。敗戦処理であっても船乗りの決然たる態度を見せていた。

 手記は四年後の五〇年、旧海軍の用紙約百五十枚の裏に鉛筆で執筆。荒木自身が「武器なき…」と題を付けた。「鵬程」は想像上の鳥、鵬(おおとり)が飛ぶ遠大な道程を意味し、「一萬浬」は航行距離一万六百五カイリ(一万九千六百四十キロ)を意味する。

 OB会は解散

 最初の三十枚は遊びに来た近所の幼児が破ったという。郁代さんは「書き直せばいいのに、そうしていません。でも、日記は三日坊主だった人なのに手記は書き通しています」と不思議がる。復員輸送という最後の任務を終えた荒木。手記で一つの区切りを付けたかったのか。疎開先の東広島市に定住した一家は食うにも困る生活で、時代は荒木を置き去りにしていった。

 宵月のOB会「宵月会」は昨年、会員の高齢化に伴って解散。荒木の死後は郁代さんや郁代さんに付き添って長男英昭さん(70)が出席していた。二人は「海軍一辺倒で戦後の世に疎く、家族を苦労させた夫であり父」と口をそろえる。「でも、私たちがあとを引き継ぐなんて想像しなかったでしょう」。そして、この手記が世に出ることもまた…。=文中、故人は敬称略(佐田尾信作)

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