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祖母千代子さんの回想録を手に少年時代を懐かしむ久楽さん。「百年の家族史の大切なきっかけです」=広島市中区大手町の元安川沿い(撮影・田中慎二)
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祖父母の足跡たどる旅
「ここで屋台船に住み込んで貸しボートの番をしていました。アベックにあてられ、二十歳前の私には目の毒でしたよ」
新潟県十日町市の元美術企画会社社長久楽(くたら)一興(筆名・伽耶野寧(かやの・ねい))さん(65)は、原爆ドーム下の元安川を眺めて懐かしむ。旧満州(中国東北部)から引き揚げたが、家業が倒産、徳山市(現周南市)から一家で夜逃げしてきた昭和三十年代前半の広島。「こんなきれいな河岸じゃなかった」
それから五十年。久楽さんは「百年との邂逅(であい)―ある北米移民―」(溪水社刊)という一冊の自著を携え、この地を踏んだ。
移民と原爆。「百年との邂逅」は近代広島の大きなテーマを抱えた家族史だ。百年前の一九〇七(明治四十)年、広島県比婆郡(現庄原市)の農家に生まれた十九歳の若者、茶園友八の単身渡米から始まる。一時帰国し、同郷の千代子と結婚するが、その後も生活のために再三渡米。三六年、五十歳を前にシアトルで死んだ。
友八は久楽さんの母方の祖父。生前を知らない久楽さんはいたずら盛りの時、「じいちゃんそっくり」と言われた。「どんな男だったのか、興味があった」と笑う。
祖母が回想録
千代子は渡米前から日記をつけ、ノート数十冊分になっていた。八十代半ばのころ、久楽さんら身内が回想録にまとめるよう促す。当初は気乗り薄だったが、生来が本好きな千代子。四百字詰め原稿用紙二百五十枚にもなり、人に頼んで清書してもらう。「お千代さん太平洋を渡る」など五章にわたる章立ても整った。二十年ほど前のことだ。
千代子は原爆投下から四日目、比婆郡から広島へ身内を捜しに行く。
「行く列車も来る列車も、あふれんばかりの乗客です。来る方の列車には、火傷に赤チンを塗ったような、赤膚(あかはだ)のひどい怪我(けが)人が大勢いて、目も当てられない姿です」(第四章「戦いすんで夜が明けて」)
しかし、出版話は進まず、知人の編集者に「こんな苦労話は山ほどある」とあしらわれ、久楽さんは原稿のまま放置。千代子と母雪子を亡くした一九九九年、久々に読み返し、「これは一家族の足跡だけど、近代日本人の足跡。しかも今の私を生々しく縛っている」と思い直す。祖父母の足跡を実際にたどろうと二〇〇三年、シアトルに旅した。友八の渡米から百年がたっていた。
貴重な出会い
シアトルでは貴重な出会いがあった。その一人がシュモー富子さん。夫のフロイド・シュモーは被爆後の広島で被災者のため住宅建設に尽力した人。晩年、シアトルに佐々木禎子の「サダコ像」建立を働きかけた。その像はシアトルを旅したその年の暮れ、何者かに腕を切断され、翌年修復される。久楽さんは一連の出来事の中にあらためて「ヒロシマ」を見た。
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清書された祖母千代子さんの回想録。「ピカドンから四日目の広島へ」とある。園内は移民時代の千代子さん
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「百年との邂逅」はシアトル紀行と千代子の回想録で構成。「読みづらい」という批評もあるが、甘んじて受ける。「百年の家族史は『シアトルの四日間』を通じてしか、私には描きようがなかった。この本は日本の近代百年の一つの断面であり、いまだプロローグでしょうね」
久楽さんは東京で事業を営み、二〇〇〇年に経営を息子に譲って、〇二年、縁あって今の土地に移り住んだ。これから千代子の日記をもう一度、原文で読む。それを第二の人生の糧にしたいと思っている。=文中、故人は敬称略(佐田尾信作)