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1:灯籠流し−陽の目を見なかった父の原爆小説

「幻のおやじ」に会えた

 「『幻の父』『伝説の父』が行間から立ち上がってきた。今やっと父に会えた気がします」

 東京都北区滝野川の社会保険労務士河野治彦さん(60)はそう言って、ぼろぼろの原稿の束を見せてくれた。表書きには「廣島T 一、爆發 二、犠牲者の到着 河野和彦」。亡き父河野和彦のこの未刊の小説が「灯籠(とうろう)流し−陽の目を見なかった父の原爆小説」(文芸社刊)という一冊の本になるまでに、六十年の歳月が流れていた。

 広島県廿日市町(現廿日市市)生まれの河野さんには一九四九(昭和二十四)年、三十二歳で逝った父親の記憶がない。母綾子さん(84)が入市被爆した時胎内にいて生まれた。母子家庭で育ち、東京で広島弁をからかわれた苦い記憶はある。綾子さんが原稿を保管していることは知っていたが、あえて避けてきた。

 しかし、一昨年、広島市立袋町小の被爆直後の壁の伝言について書いた本を読んだ時、「おやじの原稿も同じ意味があるのでは」と思う。銀行系の開発会社勤務から自営業に転じ、初孫が生まれ、自身の人生にひと区切りがついた。父親の小説を世に出そうと決意した。

見た者の描写

 父河野和彦は旧制広島高(現広島大)、東京帝大(現東京大)を卒業後、厚生省人口問題研究所に勤務。戦時下の人口政策は「戦争完遂」と密接な関係があり、一九四二(昭和十七)年に教育召集されたが、すぐ除隊になった。

 戦況が悪化すると、母親の実家がある廿日市町に疎開し、八月六日のきのこ雲とおびただしい避難民の姿を目撃。救護活動に加わり、縁者や知人の安否を尋ねて広島市内に入った。二百字詰め百五十枚の原稿は、「私」が八月六日から十五日までを回想。小説とはいえ見た者でなければ書けないむごい描写が続く。

 「炭になった腕のところに腕時計の側がペタリと吸いつき、中味が何も残っていなかった。頭の片側は炭になり、反対側で肉が腐り果てていた」

 第六章「屍の街」で「私」は八月十一日、初めて市内に入る。「木炭のようになった人間」がトラックに積まれる。幟町のカトリック教会で縁者の「深井」を捜したが見つからない。

 流川町で学生時代からなじみの「レコード屋武ちゃん」の骨を見つけて水筒の番茶をかけてやる。皆実町で恩師の「老教師」と生きて再会した。
父和彦さんの小説「廣島T」の原稿。原爆被害の写真が入った共同通信社の袋も付いていた


経緯は今も謎

 「深井」は実在の教会書記深井喚二で、河野さんは昨年、深井の友人だった広島流川教会牧師谷本清の長女近藤紘子さんの手記で、その最期を知る。「近所の人を助けるため、火の中に入っていった。父は深井を『一つの揺るぎない識見を持っていた』と書いているが、その通りでした」と感慨を新たにする。

 また、「老教師」は原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を考案した広島大教授雑賀忠義。雑賀は後に河野和彦の葬儀で弔辞を読んだ。

 だが、この小説が出版できなかった経緯は今も謎だ。和彦は戦後民間統計会社を起こすが、四八年には体調を崩しており、敗戦後すぐ仕上げたと推測できる。河野さんは「父はいわば物書きであり、出版社にルートはあったと思う。GHQ(連合国軍総司令部)の検閲があったのか、ほかに出版をはばかる理由があったのか」と考える。

 ただ一つ言えるのは、人類史上初めての原爆投下に遭遇し、文章に書き残す歴史的な役割を果たしたこと。河野さんはそんな父親を誇りに思う。(文中、故人は敬称略)

家族史の中の原爆・戦争

2006ヒロシマ


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