貴重な「記憶」次代へ
中国新聞社が呼び掛け、広島市の原爆資料館と取り組む「原爆・平和写真」のデータベース化は、「二十世紀に生み出された核兵器の使用で何が起き、続いているのか。二十一世紀に伝え残そう」との考えから始められた。家族を失い、放射線の後遺症に見舞われた被爆者の悲しみ、苦しみ、平和への希求…。原爆の威力と悲惨さを受け止めた国内外の人たちと相まってのヒロシマの営みを、一枚ごとの写真を通し、記憶しようというものでもある。初期の貴重な写真を関係者らの証言とともに紹介する。
(編集委員・西本雅実)
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現在の中区橋本町から見た市中心街の廃虚 左奥にうっすら宮島の山影が見え、被災者のバラックが焦土にぽつんと立つ。塔がある7階建ては胡町にあった中国新聞社新館、右に向き合うのは今も立つ福屋百貨店。中央右の木の後方に重なる建物は、幟町にあったNHK広島中央放送局(左)と東白島町の広島逓信病院。松重さんが撮影した3枚をつないだ
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被爆地に本社を置く新聞社が撮り続ける「原爆・平和写真」のネガフィルムは、一九四五年八月六日に始まる。撮影者は松重美人さん(91)。その二年前に写真部に所属し当時、中区の広島城跡に構えた中国軍管区司令部の報道班員でもあった。
「生き運があったから撮れたと思います」。人工透析の身を押して安佐南区の自宅で今回、被爆当日の市民を撮った歴史的な写真をめぐる知られざる事柄にも言及した。
前夜から断続的に続いた空襲警報に伴う司令部での待機が明け、現在の南区西翠町にあった自宅に戻った。朝食を済ませ出勤する途中で「トイレに行きたくなり」再び帰宅。せん光に襲われた。爆心地から二・七キロ。そのまま向かっていれば助からなかったであろう。
最初の一枚は、自宅から北西の爆心地二・二キロ、御幸橋で約三時間後の午前十一時すぎに撮影した。上流川町(現在の中区胡町)にあった本社か、司令部に向かおうとしたが火炎に阻まれる。そこで携えていたカメラ、マミヤシックスを目の前の光景に向けた。
「報道カメラマンの使命とはいえ、シャッターを切るにはためらいがあった。逃げてきた人たちを後ろから一枚、二枚と撮り、顔をアップでと回り込むと、あまりにむごくて…もう撮れなかった」。涙でファインダーがくもったと語るゆえんだ。
自宅で一緒に被爆した妻スミエさん(88)は身重にあり、めいが学徒動員先で大けがをして運ばれてきた。それでも五枚の写真を収め、残した。同時に「家長」として二人を呉まで避難させ、愛媛県の大三島に疎開していた両親と長女に無事を伝えに向かった。
全壊全焼を免れた国民学校(現在の小学校)などで半死半生で横たわる市民らの姿は、陸軍船舶司令部の写真班員らが命令を受け、撮った。焦土の全容は、文部省学術会議の記録映画班に同行した東京の写真家、菊池俊吉氏(九〇年死去)と林重男氏(二〇〇二年死去)が十月に残す。続いて「米軍戦略爆撃調査団」がカラー空撮も交えて収めた。
社員百十三人を失った社は十一月四日、焼け残った上流川町のビルでの再刊にこぎつけた。前月に入社し翌年、写真部に所属した安佐北区の岡村政男さん(84)は「ガラス切りが必需品」と振り返る。フィルムは乏しく、撮影にはガラス乾板を常用していた。三階にあった写真部の窓は戸板で雨風を取りあえずしのぐ状態。台風などの漏水で「撮影済みのガラス乾板はくっついてしまった」。損失を免れたのはわずかだった。
「原爆・平和写真」は、まさに「あの日」を体験した人の目線から撮られ、未曽有の混乱が続く中で残ったネガを受け継ぐ。惨禍を、ヒロシマの歩みを刻む写真を未来に保存し、生かすために今回のデータベース化はある。
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