孫よ

避けてきた原爆忌の平和公園
今年は家族で手を合わせたい
 


 被爆者の西方(さいほう)美代子さん(74)=広島市西区=は、孫の黒田美春さん(30)と辻瑠美さん(27)を連れ、平和記念公園(中区)を歩いた。
この場所に来ると、六十年前のつらい体験が脳裏をよぎる。原爆忌の八月六日にはこれまで、一度も訪れたことがない。



 -西方
 ここにみんなで来たことはないもんね。もう話す機会もないかと思って、(手記を)書いたんよ。今日は何から話そうか。

 -美春
 何から聞いたらいいんじゃろう。

 会話の始まりは何だかぎごちない。西方さんの自宅へ。長女で美春さんたちの母である加藤千恵子さん(53)と合流した。みんなで西方さんの手記をめくる。

 -美春
 十三歳だったんでしょう。(親元を離れることに)親は何も言わんかったん。私なら考えられん。

 西方さんは一九四四年春、広島県小国村(現世羅町)から広島へ出た。広島鉄道局管理部の講習生となった。

 -西方
 あの時は戦争で、なんかお国の役に立ちたいという思いがあったよね。街へのあこがれと半々かな。親も「お国のために」って。

 左官町(現中区十日市町辺り)の妙頂寺で同期生四十三人と合宿しながら、竹やりやバケツリレーなどの軍事訓練に追われた。

 -西方
 (翌年の)三月二十九日に卒業証書もらって、四月からは国鉄、病院、バスに乗る人といて。婆々(自分のこと)は可部線(の車掌)に。

 -美春
 B29(爆撃機)はよう来よったん。

 -西方
 何回も来たよ。空襲警報のサイレンが鳴ったらみんな防空ずきんをかぶって、救急袋を持って逃げよった。

 -美春
 原爆が落ちるまでの被害は。

 -西方
 焼夷(しょうい)弾。B29が来たらみんな逃げたの。「今日が最期かもしれないよ」といつも上司に言われてた。

 -美春
 (原爆投下の)六日は、ばあちゃんの上に人が重なったから助かったんでしょ。

 美春さんは高校の演劇部時代、原爆劇を演じるため西方さんから被爆体験を断片的に聞いたことがある。西方さんは、打越町(西区)の広島鉄道局三篠寮にいた。木造二階建ての一階で、食事の準備をしていた。

 -西方
 そう、上に三人くらい。一番上の人は背中にガラスがいっぱい刺さってね。みんなで何とか外に出たら、中年の(男の)人が「助けてくれ」と血まみれで。でも、みんな逃げるのに必死で見向きもしない。緑井(安佐南区)だったかな、竹やぶに逃げたの。

 -美春
 水につかったらいけんかったんでしょ。

 -西方
 飲んだらいけん言われた。でも熱くてやれんけえ、みんな飛び込んで。たいてい息が絶えとった。逃げた先では、七、八歳の男の子がね、頭の皮がぶらさがって、ぼろぞうきんみたいに。

 瑠美さんは長男の口元にゼリーを運んでいた手を止め、顔をしかめた。

 -美春
 (原爆)資料館(中区)にある人形より、ひどいって聞いたよ。

 -西方
 そうね。婆々はとにかく(芸備線の駅がある)戸坂(東区)まで歩いたの。それから列車に詰めて乗って、芸備線の志和地駅(現三次市)に帰り、そこからはバス。世羅でも、体中ガラスが刺さった(まま逃げてきた)人がおった。婆々らはまだ子どもで、何もできんかった。束になって髪が抜ける人もおったんよ。家に帰ったら家族は「きのこ雲が見えた」って言うの。

 西方さんは八月十日、寮に残した荷物を確認するため焼け野原に戻った。横川駅(西区)で負傷者を担架で列車に乗せる救護活動もした。

 -西方
 経路は覚えてないけど、広島駅(南区)周辺に行ったら、まだ煙っていて何もなかった。寮も焼けてね。荷物が見えたんだけど、取りに入れない。

 美春さんの長女(4つ)が、西方さんの隣にちょこんと座った。話の輪に入りたいようだ。

 -西方
 でも、田舎のある人は帰りなさいと言われてね。だから十三日に世羅に帰って、十五日の敗戦は親から聞いた。ラジオでは言ったらしいよね。戦後は(世間では)「被爆してたらお嫁にいけない」とか言われてたけど、結婚して。

 西方さんも一時、脱毛など急性症状に苦しんだ。一九五〇年、夫の実美さん(九八年に七十歳で死去)と結婚した。

 -西方
 その後の差別って特に感じなかった。今はちょっと違う。「あなたは原爆手帳(被爆者健康手帳)があっていいね」って。あれが一番つらい。情けない。私は好きで(原爆に)遭ったんじゃないのに。確かに(医療費が実質)無料だから、言われるのは仕方がないのかね。

 -美春
 でも、それだけのことを背負ってきたんだから。

 -西方
 今は、病院では(手帳が)人の目に触れぬようにするの。

 美春さんの長女は話が理解できないのか、おもちゃ遊びを始めた。

 -美春
 私が十四(歳)の時は、本当に何も考えてなかったなあ。今の十四の子に話しても分からんじゃろうね。

 -西方
 そう。あんまり話したくないのは、そんな理由もあるんよ。若い子には分かってもらえないかもって。

 -美春
 ある程度、年をおいて聞いたら受け止められるんかな。

 -西方
 あんたらには詳しい話をせんかったよね。お母さん(加藤さん)にも話さんかった。手記は被爆五十年のとき、すでに書いてたの。でも、出す気がせんかったんよね。ほいで何かの折に、ひでちゃん(美春さんの夫の黒田英文さん)に話をしたのがきっかけ。それでちゃんと書いて、みんなに読んでもらいたいと思ったんよ。何にも残してやるものがないからね。

 -瑠美
 手記を読んでね、びっくりした。こんな間近で体験してたんだって。ちょっと、ぞっとした。小学校でも、いろんな人の被爆証言を聞いてるはずなんだけど…。(おばあちゃんは)こんなに元気だし。

 -美春
 今まで平和教育で聞いてきた被爆体験は、どこか人ごとだったよね。でも身内の話を聞くと、人ごとじゃない。今のおばあさんからは想像できないなって。これまで聞いていいのか分からなかったから、あえて詳しく聞かなかった。いつも明るいし。

 -西方
 (おどけて)ばかなのよ。

 -美春
 それはないって。つらい思いをしているから乗り越えられるんだと思う。

 -西方
 そうね。手記に出てくる人は、名前も顔も忘れられん。(やけどに塗る)白い薬が、すごいにおったのも忘れられん。でも、どうもしてあげられなかった。私はただ生き延びた。

 -加藤
 生き延びたから、こうしてね…。

 -西方
 あんたらがおる。ひ孫もおる。

 瑠美さんは長男(3つ)を病院に連れていくため西方さん方を出た。美春さんは生後五カ月の長男を抱き上げる。

 -美春
 この子たちが大きくなったらどんな時代になっているのか怖い。戦争があったら一番被害を受けるのはこの子たちでしょう。守るべき家族ができた今は、離ればなれになるのが怖い。

 話題は八月六日の平和記念式典に。

 -西方
 ほかのときは(平和記念公園に)寄れるんだけど、八月六日には行けんね。家で黙とうしとるだけ。

 -加藤
 でも、その姿を見てるから、私も八月六日のサイレンの時には、娘たちに必ず広島の方に向かって黙とうさせてた。二人とも訳は分からなかっただろうけど。

 -西方
 あなたが(黙とう)しとるのは知っとったけど、孫までとは知らんかった。

 -美春
 物心ついたときから、サイレンが鳴ればしとったよね。花梨(長女)にも教えようるよ。まだ、意味は分からんだろうけど。

 -加藤
 今年は、式典に一緒に行けるかな。

 -西方
 ほんと、みんなで行ったことないもんね。電車に乗って。ね、行こうね。



「やっと書きあげたんよ」。手記を持ち、結仁ちゃんを抱きかかえる西方さん(右端)。左から加藤さん、鷲翔ちゃんを抱く黒田美春さん、花梨ちゃん、辻瑠美さん(撮影・宮原滋) 



西方さんがしたためた手記(複写)。平和な世の訪れを願い、今年3月に子や孫に託した







 



 語り終えて

西方さん
大病を機に伝える決意

 分かってもらえるかどうか悩み、手記を書くのもためらった。ですが五年前に、くも膜下出血で頭を手術し、いつどうなるか分からないという思いもあって、被爆六十周年を機に決意した。思い出したくない気持ちもありましたが、かわいい孫やひ孫に、私のような思いをしてほしくない。それで伝えたいと思った。
 私は思ったことを顔に出さない性格。手記を読んで「びっくりした」と言う孫は、(私の体験を詳しくは)知らなかったんだなと思った。真剣に聞いてくれたのがうれしく、安心した。孫はひ孫に、親として伝えてほしい。八月六日の平和記念式典に、今年は家族で訪れてみたい。





 聞き終えて

美春さん
身内に語る難しさ理解

 祖母は私たちの質問に冗談めかしたり、核心部分をはぐらかしたりしていたように感じた。いざ身内に体験を語るとなると、何をどう話すべきか分からないのだろう。
 気持ちは分かる。きっと、身内だからこそ難しい。それでも私は、花梨(かりん)(長女)や鷲翔(しゅうば)(長男)に伝えたい。祖母の被爆体験を、そして母が私たちに教えてくれた八時十五分の黙とうを。



瑠美さん
祖母が見た光景を想像

 小学生のころ、平和学習で聞いた被爆証言はあまり頭に残っていない。でも、祖母の手記を読んでみると、逃げ惑う間に見た光景が目に浮かんできた。身内だったためか、想像しやすく、細かい部分も覚えることができた。
 今度は結仁(ゆいと)(長男)も平和記念公園に連れて行きたい。祖母から、母から受け継いだ「八月六日」を伝えたい。



担当記者から


体験者の数だけ苦悩、実感 … 桜井邦彦

 身内に被爆体験者がいない私にとって、原爆問題は正直言って人ごとでしかなかった。原爆の悲惨さを理解する第一歩は、被爆者の人となりや人生に触れること。対話を重ねるうち、それが身にしみて分かった。
 「被爆者の数だけ被爆体験はある」と言われる。多くの被爆者に出会い、その通りだと実感した。同じような惨状を見たとしても、感じ方も、奪われた「大切なもの」もみんな違う。
 それを聞くために、長いときで丸一日、若者は被爆者と向き合った。そうして、ふだんは口を開こうとしない体験や生きざまに触れたとき、その苦しみや悲しみが胸に迫った。




被爆者と対話 続けてこそ … 門脇正樹

 総勢六十五人の若者が被爆者と向き合った。平和学習を「やらされた」と言う彼らや彼女たちが、時を忘れ対話にのめり込んだ。冷静に受け答えしたり、泣きじゃくったりもした。
 同時に考えさせられた。「学校で同じことができているのだろうか」と。短時間の授業で原爆被害の基本は学べても、被爆者の思いすべてをくむことはできないのではないか。その後の交流も続けているだろうか…。
 最終回は家族にこだわった。一番「身近」なヒロシマの継承。互いに語りづらい相手だと、わが身を振り返っても分かる。一人で駄目なら、両親やきょうだい、友人と一緒に。何度でも。




若者に託された思い知る … 加納亜弥

 「遭うたもんじゃないと分からん」。そんな被爆者の言葉は、「体験は悲惨すぎて伝わらない」とも聞こえる。そのたびに、被爆者の記憶を継承するなんて無理なのではと感じていた。
 その疑問に、連載に登場した被爆者から、こんな答えを聞いた。「伝えたいからこそ、遭うたもんが今、頑張っとるんよ」。過去を嘆くだけではなく、未来を思うからこその言葉だった。
 核兵器廃絶をめぐる世界情勢は後ろ向きで、ヒロシマの願いに反比例するかのようだ。その流れにあらがえるのは、未来を生きる若者世代―。それこそが、被爆者の伝言だと思った。




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