ああアメリカ

顔にやけど 死のうと思った
伝えて。原爆は過去じゃない
 


 広島市教委の英語指導助手アナ・ペレズさん(25)と広島大三年の山本奈美さん(23)が、
被爆者の武谷田鶴子さん(76)を東区の自宅に訪ねた。
武谷さんは、二人に自著を手渡し、原爆で肌を焼かれた悲しみと渡米治療の記憶をゆっくり語った。




 -武谷
 青く澄んだ空を見上げたら、オレンジ色の球体がゆっくり落ちてきたの。キラキラ輝いて、きれいだったわ。

 -ペレズ
 何か「危ない」と。

 -武谷
 ううん。核爆弾の予備知識なんてない。うっとり見詰めていたわ。そして意識を失った。戻ったとき、体すれすれに屋根瓦。自分の姿を見たら、何も着ていなかった。学生服にスリップ、ブラジャー、パンツをはいていたのに、腰にぼろ布が巻き付いているだけだった。

 「そんな」と二人。武谷さんは、爆心地から約一・五キロの千田町(中区)にいた。

 -武谷
 がれきばかりで静かだった。この世に私だけ取り残されたよう。右腕の皮膚が白っぽくて、左腕は皮がクルクルッ、クルクルッて巻いて。右ほおはガサガサ、左ほおはねっとりとね。

 武谷さんは両袖をまくり、二人にやけどのあとを触らせた。

 -武谷
 吉島本町(中区)の(父が経営する)みそ工場に寝かされた。母はすぐ、やけどにてんぷら油を塗ってくれたの。目をしばたたかせたり、口を動かすことはできても、体はずっとあおむけのまま。これが被爆体験。どこまで知りたい?

 -山本
 治療の様子を。いいですか。

 -武谷
 傷口のガーゼはうみで真っ黄色。臭いから、母は真夜中に共同水場で洗い続けた。(看病のストレスや疲れがたたったのか)そのうち乳が出なくなったの。生後六カ月の妹は死んだわ。やけどした私が死ねば良かったのに。

 しばらく沈黙。

 -武谷
 お医者さんが白いドロッとした薬を持って来たの。少ししかないから、「どこに塗ってほしい」って。真っ先に「顔」って答えたわ。

 二人はうなずく。

 -武谷
 十六歳って思春期のころでしょ。女はそのころを境にどんどんきれいになる。でも私はやけどで…。山本さん、あなたなら生きられる?

 山本さんは言葉に詰まる。

 -武谷
 めいってしまうよね。

 -山本
 うん。

 -武谷
 アナ。あなたが私と同じようにやけどして、幸せかな?

 ペレズさんも返せない。重い空気が漂う。

 -武谷
 この先、幸せは得られない。死のうと思った。なのに突然、生理が始まったの。初潮。心では「死にたい」のに、体は「生きられる」と訴えてくる。どうしていいか分かんないよ。

 -山本
 ショックですよね。

 -武谷
 そうよ。その後も悲しかった。お茶のけいこをしていたの。お茶席で私にお点前の番が回ってきたとき、先生が私をパスして次の人にやらせたの。やけどのあとがあったから。

 -ペレズ
 何で。米国ではそんなことしない。

 -武谷
 女友達とお風呂に入ったときのことよ。(やけどのあとがない)私の右の首筋をなでて「まあきれい」とね。「ここだけきれい」と言っているふうに聞こえた。耐え難かったわ。

 -山本
 ねたみやジェラシー。女性特有の感情。彼女に特別な意図はなかったろうけど。

 -武谷
 心に苦しみを持つ人が、何となく行く所ってどこだと思う。

 -山本
 教会。

 -武谷
 私は広島流川教会(中区)へ。そこで谷本清牧師とノーマン・カズンズさんに出会った。技術の進んだ米国で治療をと。選考条件は、形成手術の効果が期待できて、手術に耐える体力のある独身女性。

 -山本
 選ばれてうれしかったですか。

 -武谷
 自分を醜くした米国になんか、ほんとは行きたくなかったけど、(強く勧める)父には逆らえなかった。岩国から軍用機でニューヨークへ。給油で真珠湾近くにも寄ったの。「ここから戦争が始まり、そして私は…」。手術は皮膚を移植し、顔の赤みは光で消したの。今もちょっとガタガタしてるけどね。

 渡米は被爆十年後。武谷さんは二十六歳だった。岩国基地の滑走路は当時、軍民共用で「岩国空港」と呼ばれた。

 -山本
 (傷は)よく分からない。

 -武谷
 今日は特別きれいにお化粧したの。

 -ペレズ
 (緊張が解けて)あははっ。

 -武谷
 顔は初期処置が良かった。母がてんぷら油、医師が白い薬を塗ってくれていたから。あなたなら、顔と体、どっちのやけどを選ぶ。

 -山本
 体かな。

 -武谷
 米国では毎月、別のホストファミリーと過ごしたわ。ドレス着用のパーティーにも出席したの。襟元も背中も大きく開いていて、ファミリーは私を突き放すようにダンスを楽しむ。「田鶴子、自立しなさい」と。前向きに生きることを教えられた。いっぱいの愛で憎しみは薄れ、いつしか感謝の気持ちが芽生えていた。

 手術は一回だけだった。米国には約一年間滞在した。

 -武谷
 帰国の日、空港で記者陣にこう言ったわ。「真珠湾を奇襲した日本人を憎む人もいるでしょう。でも私は米国人のおかげで素晴らしい手術を受けられた。温かい心、思いやりの心が米国を憎む心を失わせ、今では愛するようになりました」と。正直なままに。

 -ペレズ
 被爆者との衝突があったのでは。

 -武谷
 随分とね。でも胸を張った。ただ、日本では私たち二十五人はドラマチックに報道された。「違う」と言っても誇張され、「かわいそう」と型にはめようとされた。思いと違う記事に傷つけられたこともね。

 -ペレズ
 本(武谷さんの自著「記憶の断片」)は、「9・11」後に出したのですか。

 -武谷
 テロの後、ニューヨークのホストファミリーの願いでね。妹の死、傷の痛み…。地獄をさまよった当時がまざまざとよみがえってきた。

 唇をかむ山本さん。

 -武谷
 苦しかったけど、次の世代に伝えるため、平和を願って書いたの。精神的、肉体的に苦しみを通り越したからこそ言える。原爆を使ってはいけないと。

 -ペレズ
 ニューヨークではヒロシマを聞かないし、ほとんど知らない。今も被爆者がいるなんて考えもしなかった。

 -武谷
 うそ。

 -ペレズ
 (米国に)戦争反対の人はいる。一方、イラクに自由を広げたいと思う(戦争肯定の)人もいる。

 -武谷
 米国に分かってほしいの。爆弾を落としたら、その国がどうなるかってことを。

 -ペレズ
 広島に来る前、友人から「おみそ汁をたくさん飲んで」とアドバイスを受けました。

 「みそには体内の放射能を排出する効能がある」との学説がある。ペレズさんの友人は、被爆地に残留放射能があると思っているようだ。

 -ペレズ
 ヒロシマのイメージは暗い。でも、米国が(原爆を落として)暗くしたんだという意識は薄い。

 -武谷
 伝えて。お願いよ。平和を訴えて。原爆は過去じゃない。今も苦しんでいる人がいるんだって。




「お願い、伝えて」。被爆体験をつづった自著を広げ、武谷さん(左)は、ペレズさん(中)と山本さんに訴え掛けた(撮影・今田豊)




岩国空港から軍用機で渡米治療に出発する女性たち(1955年5月5日)







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 渡米治療

  被爆者で広島流川教会(中区)牧師だった谷本清氏(1986年に77歳で死去)が、米のジャーナリストで平和運動家ノーマン・カズンズ氏(90年に75歳で死去)に呼び掛け実現した。
 55年5月から翌年11月にかけ、顔や体にケロイドが残る独身の女性被爆者25人が、米ニューヨークのマウント・サイナイ病院で無償の治療を受けた。
 原爆を投下した米国で、身をもって被爆の実態を伝えた彼女たちを、カズンズ氏は「平和の使徒」と呼んだ。治療の様子は米国内でも大きく取り上げられた。
 これを機に日本国内でも被爆者援護を求める声が高まり、57年の原爆医療法(被爆者援護法の前身)制定につながった。
 カズンズ氏は、原爆孤児の精神養子運動も提唱したことでも知られる。広島市は特別名誉市民の称号を贈った。


 



 語り終えて

武谷さん
胸のつかえ取れた

  記憶にある限りのすべてを話した。山本さんは私の気持ちをくみ、理解してくれたと思う。アナは純粋に受け止めてくれた。胸のつかえが取れ、すっきりした。
 世界貿易センタービルが崩壊したとき、平和も崩壊すると思った。米国の反撃が余波を生む気がした。自衛隊海外派遣など日本も流れに組み込まれている気がする。戦いをやめ、話し合ってほしい。みんな私の被爆体験にばかり目を向けるけど、ここを一番訴えたい。平和が保たれることこそ、私の願い。


 聞き終えて

山本さん
今も続く苦しみに衝撃

 「あなたなら、どう? 生きられる?」。唐突な質問に答えられなかった。うわべだけの言葉にしかできなかった。原爆を「歴史」だととらえていた。武谷さんが今なお苦しんでいることを知り、ショックを受けた。
 武谷さんは大事に言葉を選んで話してくれた。想像力を全開に働かせ、同じ気持ちになろうとしてみた。少しでも理解したい気持ちになった。


ペレズさん
平和へ小さな一歩から

 キラキラと落ちる爆弾を「きれい」と思ったと聞いて涙がこみあげた。被爆者が体験を語るということは、単純なことかもしれない。でも、その体験を聞いた誰かが別の一歩を踏み出せば、確実に前に進む。
 では、私には何ができる? 笑顔でいること、ありがとうと言うこと。平和を広げるのは、そんな小さな一歩から始まるのだと思う。




担当記者から

 「お願い」かみしめたい

 「私の気持ち、分かってくれる?」。武谷さんは私たち記者にも何度も問いかけた。多感な少女が背負った重い人生。わずか数時間で十分にくみ取れただろうか。
 原爆を投下した国で生き抜く自信を得た。被爆した国で周囲から冷たい視線や誤解を浴びた。皮肉とも思える複雑な対比はいったい何なのか、市民社会の懐の大きさの違いなのか、などと考えさせられた。「お願いよ、平和を訴えて」という武谷さんの一言を、まずはじっくりかみしめたい。(門脇正樹、加納亜弥


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