よっちゃん

ここです。ここにおるー
遺影で再会 「連れて帰れる」
 


 広島市東区の三村十七子さん(77)は、中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪ね、六十年前に被爆死した両親の遺影を登録した。
応対した職員藤原佳音里さん(25)は、近くにある原爆資料館の学芸員勝部知恵さん(27)とともに、写真ににじむ家族への思いに耳を傾けた。



 -三村
 (手が震えて書類に)書けんの。書いて。こっちが父の高橋淳蔵、こっちが母の好子です。農業をやってました。

 -藤原
 いつごろの写真ですか。

 -三村
 たぶん二人とも二十代のころだと思います。これより新しいのは(原爆から数年後の)水害で牛田町(東区)の家が流されてしまったから、ないんです。

 原爆投下時、父は五十一歳、母は四十四歳だった。藤原さんは二人の被爆状況を尋ねた。

 -三村
 お母さんの里の観音町(西区)に、船で下肥(しもごえ)を取りに行く途中、川(天満川)で被爆しました。お父さんは背中が丸焼け。向き合っていたお母さんは前が丸焼けでした。(三村さんを含め六人の)子どもが心配だったんでしょう。ひどいやけどだったのに家まで帰ってきました。(家にいた)私も右腕をガラスでけがしてたけど、水ぶろで体を洗ってあげました。

 両親がいたのは現在の天満小(西区)付近らしい。爆心地から一キロ余り。淳蔵さんは八月十九日に死去した。三日後、好子さんも後を追うように息を引き取った。

 -三村
 当時、戸坂(東区)の国民学校でけが人に赤チンを塗ってくれていたそうです。知ってたらリヤカーで(両親を)運んであげられたのに。みとって、焼いたんです。二人とも。

 -勝部
 ごきょうだいで遺体を…。

 -三村
 そう。七歳と五歳の弟らに、まきとわらを…、持って…、来いっ…。

 涙ぐんで言葉にならない。藤原さんと勝部さんもうなずくばかり。登録は十分で終わった。

 -藤原
 前に弟さんも登録されましたよね。

 -三村
 去年の夏です。私も年を取って、いつおらんくなるか分からんから。ここに持ってきておけば、みんなにまつってもらえるでしょ。

 勝部さんが何か言いたげだ。

 -三村
 夏に、弟の好文が通っていた(旧制)山陽中学のボタンが似島(南区。昨夏、八十五体の原爆死没者の遺骨が発掘された)で出たのを知ったんです。六つしか違わんくて、「よっちゃん」て呼んでたの。遺体も遺品も見つかっておらんかったの。慌てて(原爆資料館に)行ったら、山陽中学の集合写真を見せてくれてねえ。

 -勝部
 それ、私なんですよ。覚えとってないですか。

 -三村
 ありゃ、そうでしたか。よっちゃんはちっちゃかったけん、前の方に座っとる思うてね。おたくが一枚、二枚と出して…。三枚目で、ああー、ここですー。ここにおる、ここにおるーって。ようやく連れて帰ってあげれるねえー。うれしかったよーって。

 -勝部
 そうそう、泣きだされてねえ。みなさん丸刈りで、私にはどの顔も同じに見えたんです。それがすぐに分かって。捜してらしたんだなって。

 -三村
 お父さんとお母さんの世話で私は動けんかったから、弟らに「高橋好文はおらんか」いうて、おらんでこいって。結局見つからんくて…。お寺さんには、へその緒を納めたんです。

 -勝部
 弟さんの被爆した状況を聞いてらっしゃいますか。

 -三村
 雑魚場町(中区国泰寺町)へ建物疎開に行っておったそうです。よっちゃんを見た子の話では、たいそう顔を腫らしとったそう。東練兵場(東区)の方へ逃げて行ったらしいから、そのまま似島へ送られたんじゃないかって。

 -藤原
 いつごろ聞かれたんですかねえ。

 -三村
 原爆の三年くらい後じゃったかね。

 -勝部
 ずいぶん後になってですね。

 -三村
 弟らにどう食わしていこうかで、頭がいっぱいじゃったからね。とても捜しに行くことができんかったです。

 -勝部
 写真は山陽高からいただいていたんです。「何枚もあるけど名前と顔を一致できない。遺族に見てもらいたい」と。弟さんの顔を鮮明に覚えておられたんですね。

 -三村
 私と一番仲が良かったからね。「姉ちゃん、姉ちゃん」て、付き歩きよったからねえ。

 -勝部
 好文さんの遺品はないんですか。

 -三村
 みな流されて、残ったのは稚児行列のときの写真だけ。新しいのが見つかったけえ、良かったよ。ねえ、よっちゃん。(写真のコピーを取り出し)みんな水を欲しがって死んだらしいね。何が欲しい。コーヒーか。お茶か。

 三村さんは写真に向かって「良かったねえ」と繰り返す。見守る二人の目頭が熱くなる。

 -藤原
 遺影登録のほか、体験記を祈念館のデータベースに入力する仕事をしています。昭和二十年ごろは「米国が憎い」とストレートに書かれているのに、だんだん「仕方がなかった」が多くなる。悲しいとか、何か深い思いがあったはずなのに、被爆後の大変な生活にそれが奪われてしまっている気がして…。

 -三村
 原爆からこっち、ええ記憶がない。初めは米国が憎かったけど、六十年もたつと怒りを通り越してしまった。うまく言えませんが、どうにもこうにもならないでしょ。家族は帰ってこんのに。あきらめが半分じゃねえ。

 -藤原
 私たちの世代は、その「仕方がなかった」という記述から原爆に入り込むんです。被爆者の怒りを目にする機会はめったにないです。

 -三村
 食べるのに精いっぱいで、誰彼を憎むいうことを忘れて生きましたからね。私は。

 -勝部
 昨年、(原爆資料館で)動員学徒の企画展を担当しました。展示資料の中に妹さんの名前を見つけた方は「涙があふれて、どうしようもなかった」と言われました。山陽中学の学徒もひどい被害でした。

 -三村
 私も弟の写真を見たら、もう物が言えんくなったからねえ。

 -勝部
 ボロボロ泣かれてね。米国を憎むのを忘れたとおっしゃったけど、好文さんのことは六十年も思い続けて…。

 -三村
 行方不明だったからねえ。哀れみ、いうんですか。

少し間を置き、三村さんが続けた。

 -三村
 私は子どもがおらんけえ寂しいけど、それでも今が一番幸福ですよ。年金は入るし、(健康)管理手当は入るしね。ヘルパーさんも一週間に一回入ってくれるしね。肩の痛いのが情けないだけでね。

 -勝部
 原爆のときのガラスですか。

 -三村
 いやいや、使いすぎ。(左官の)主人と一緒に、ブロックやセメントを運んだから。

 -藤原
 働いておられたんですね。

 -三村
 トラック乗りよった。二トンのに。

 -藤原
 えー。

 三村さんは身長一四三センチと小柄だ。

-三村
 ヘヘヘ。ダンプよ。(アクセルやブレーキに足が)とわんけえ立って運転するんよ。

 -勝部
 ハハ。

 -三村
 写真をようしてくださって、話を聞いてくださって、ありがとうございました。感謝でいっぱいです。ねえ、よっちゃん。



「忘れるなんて、できんかった」。両親の遺影を登録した三村さん(中)は、藤原さん(左)と勝部さんに60年間の思いを打ち明けた(撮影・田中慎二)




山陽中1年の集合写真に写る「よっちゃん」(山陽高提供) 



三村さんの父高橋淳蔵さん(左)と母好子さん。
仲むつまじく、出掛けるときはいつも一緒だったという








●クリック 

原爆死没者の遺影の登録

  国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で受け付けている。名前だけでもよい。昨年末までに集まった遺影は9758人分、名前だけが1364人分。登録できるのは「原則として死没者の遺族」だったが、昨年2月に対象を拡大し、同窓会なども登録できるようになった。被爆体験記も受け付けている。


 



 語り終えて

三村さん
体験話し気分楽に

 身内以外に体験を話すのは初めて。安心感というか、スッとして私なりに肩の荷が下りた気がした。あの方たちがどう受け止めてくれたか、若い人には若い人の考えがあるので、ああしてこうしてとは言いたくない。
 もし原爆に遭わなければ、私も幸福に生活しとったかもしれない。弟を亡くし、死んだ親を自分で火葬しなくてはならなかった心の内は、その場におった人でないと分からんと思う。核兵器を造らんようにして、みんなが仲良う暮らせる世の中にしてほしい。


 聞き終えて

藤原さん
「今が一番幸せ」 悲しい

 日々の仕事では、こちらから積極的に被爆状況を聞き出すことはない。三村さんを自分に置き換えて聞いた。考えてみると「今が一番幸せ」との言葉は悲しい。なぜこんな悲惨な体験を一人の女性が背負わなければならなかったのか。怒りと疑問がわき上がった。被爆者に対するぼんやりとした思いに、痛切さが加わったのを感じた。


勝部さん
記憶の橋渡しをしたい

  三村さんは弟さんの写真を、六十年近くしてやっと手にできた。それを見つけて涙が止まらなかった様子を見て、ずっと心を痛めていた思いの深さを知らされた。この街を歩いているお年寄りたちの中にも、原爆で亡くなった家族を思い続けている人がいる。今の仕事を通じ、そうした記憶の橋渡しをしたいと強く思った。




担当記者から

 涙と肉声 揺さぶられた

 三村さんにとって「よっちゃん」は12歳のままだった。終始、写真をやさしいまなざしで見つめつつ、感情が高ぶったり、口ごもったりして、会話が途切れる場面が随分あった。家族を失った悲しみは、気の合うデイサービス仲間にも語ったことはないという。
 若者2人は、日々の仕事で被爆者と向き合っている。それでも三村さんの涙と肉声に揺さぶられていた。「経験したことしか話せませんよ」と繰り返す三村さん。それで十分だと思う。(桜井邦彦、門脇正樹


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