セミパラの子へ

地獄を体験 何か残さにゃ
核汚染 地球がつぶれる…
 


 広島市南区の自宅で佐伯ヒサさん(85)が、六十年前を静かに語り始める。
カザフスタンからの留学生ヌルペイソヴァ・アルビナさん(18)とクリャミロヴァ・アリヤさん(17)が、
被爆者の体験を直接聞くのは初めてのことだ。



 -佐伯
 そう、あの時は三歳になる子どもを抱いて家の中で立っとりました。そしたらパーッと明るくなって、ドン。鳴ったと思ったら吹き飛ばされました。

 夫正明さん=当時(30)=は軍役で九州にいた。東白島町(中区)の自宅には長男の明ちゃん=同(3つ)=と、佐伯さんの母ハルエさん=同(59)=の三人。母は家の奥にいて外傷はなかった。

 -佐伯
 気づくと子どもは一間(約一・八メートル)離れた所に倒れておりました。私の右腕はダランと折れとったんで、布を巻いて首からつりました。左手で子どもを抱き、母と三人で近所の広島逓信病院に向かいました。外は火の海。(路面電車の)白島線の電車も黒焦げ。火に囲まれて、どうしたらええか分からんようになりました。

 -アリヤ
 誰も助けてくれなかったですか。

 -佐伯
 みんな、それどころじゃない。母に引っ張ってもらって、どうにか病院に着きました。でも、応急処置を受けとる間に病院の一階にも火が回ってきて…。中庭へ出たところで火に囲まれ、逃げ場をなくしたんです。必死に防火用水をかぶってね。そのうち黒い大きな粒の雨が降ってきて、まあ命拾いしました。そんときは、雨に放射能がたっぷり含まれとるとは、夢にも思わんかったですねえ。

 二週間もたつと右腕は化膿(かのう)し、医師の説得で切断した。

 -佐伯
 手術する部屋には窓ガラスもなくてねえ。ハエがいっぱい飛び回っとりました。骨がのこぎりで切られる音が耳元にギーって響いて。

 -アルビナ
 のこぎりっ。ええっ。

 -佐伯
 しばらくして傷口にウジがいっぱい、いっぱいわいてね。

 ウジがハエの子と聞き、アリヤさんは顔をしかめた。

 -アルビナ
 薬はたくさんありましたか。

 -佐伯
 薬なんてありません。あっても早い者順。私はたまたま麻酔と傷口を縫う糸が残ってたので助かった。でもその後はね、肉がきれいに盛らんで、今も骨が突き出とるんよ。時々うずいて、強く触れると痛みます。触ってみますか。

 -アリヤ
 (小声で)触ってみたい。

 遠慮がちに佐伯さんのそばに歩み寄り、襟元からそっと触れた。アルビナさんは首を横に振り、うつむいたまま。

 -佐伯
 勉強のためよ。

 -アルビナ
 じゃあ…。ああ…。

 正明さんはその年の九月に復員した。明ちゃんは血便が続き、日ごとに泣き声が弱くなって十月七日に死去した。解剖された。「内臓の色がどす黒く変わり果てていた」と聞いた。

 -アリヤ
 戦後はどうやって生活したんですか。仕事とか。

 -佐伯
 やっぱり、そこが気になるわねえ。私は利き腕を失い、夫もすぐ(一九四七年)死にました。その年の初めに娘(秀子さん)を産んでいたのに…。私は人の力を借りて生きていくのはいやなの。負けず嫌い。好きな縫い物で身を立てることにしました。おしめや産着、振り袖を毎日夜なべして縫ったんよ。

 左足の指で布をはさみ、つまようじを針に見立てて縫うまねをして見せる。苦労を重ね、和裁士の資格を受けた。酷使したせいか左手の指の骨は曲がったまま硬直している。

 -佐伯
 友だちにハッパをかけられてね。(着物を)仕上げたら、親せきの呉服屋に置いてもらいました。一人前に扱ってもらえたのは、そう、娘が小学校に上がるころでしたね。

 三人は東白島町へ向かった。佐伯さんは車で近くを通ることはあっても、自宅のあった場所を訪ねるのは六十年ぶりという。

 -佐伯
 そう、(原爆の前には)家の裏の川土手に焼夷(しょうい)弾が落とされましてね…。だんだんと、いろんなことを思い出すね。(あの日は)みんな、顔も着物も焼けて裸。家族に会えず、孤独に死んだ人もいる。死んだら腐る。臭かった。忘れようと思っても、忘れられん。だから人に体験を話すのを避けてたんでしょうね。

 佐伯さんの記憶が少しずつ鮮明になる。アルビナさんは目頭を何度か手で押さえた。

 -アルビナ
 お孫さんには話されましたか。

 -佐伯
 きちんとは話しとらんねえ。(今は)隣近所の付き合いもない時代。広島でも原爆を知らん子が多いんよ。なんせ親が知らんのじゃけんねえ。

 -アルビナ
 うそっ。どうしてですか。

 -佐伯
 年寄りが原爆のことを話さんからよ。

 -アルビナ
 でも。

 -佐伯
 地獄だったんよ、ほんと。この世のね。六十年たったし、年も取ったし、今じゃけえ話せるんよ…。

 納得できない表情のアルビナさんは言葉をつなごうとしたが、佐伯さんの悲しそうな表情に黙りこくった。

 -アリヤ
 米国をどう思いましたか。憎くないですか。

 -佐伯
 しかたがないでしょ、戦争じゃけ。恨むも何もないですよ。負けたもんが負け。

 -アリヤ
 そんな。

 -佐伯
 戦争じゃけ、お互いさまじゃけえ。

 -アリヤ
 でも右手をけがして…。

 佐伯さんの目尻に涙がにじむ。

 -佐伯
 涙なしには話せれん。けど、どうせ生きるんなら楽しい方がええ。だから笑って生きることにした。原爆もほんとは思い出したくない。ABCC(原爆傷害調査委員会)に行くのもいやだった。けど死期が迫って、何かを残しとかにゃと思ったんです。もう(原爆が)落ちんことを願うしかない。このことは、胸に入れとってほしいと思う。

 しばらく沈黙が続いた。

 -アルビナ
 私たちの国の話も聞いてください。

 カザフスタンの地図やセミパラチンスク核実験場近くの村で生きる被曝(ひばく)者の写真を持参していた。

 -アルビナ
 (旧ソ連時代の)一九四九年から四十一年間も核実験が繰り返されました。今もその放射能の影響に苦しんでいる人がいます。

 -アリヤ
 二十二キロトンプルトニウム爆弾(広島原爆は高性能通常爆薬TNT換算で推定十五キロトン)の実験でできた穴に水が流れ込んで、湖ができました。

 -佐伯
 こんなに大きいの。大変じゃねえ。地球がつぶれにゃあ、いいですねぇ。

 -アルビナ
 三歳のころまで家が揺れていたのを覚えてます。核実験が起こした地震です。

 -アリヤ
 私の祖父は(二十年前に)がんで四十五歳で死にました。放射能の影響だと聞いています。

 -佐伯
 広島と似たようなんが起きとるんじゃね…。今ね、私は被爆体験記を書いてるんですよ。孫(二十九歳)にパソコンで打ってもらって。できたら国の何とか祈念館(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館)に寄贈するんです。あなたらに届けてもらえるとうれしいね。

 -アリヤ
 ぜひ。

 -アルビナ
 喜んで。



「ここに来ると、やっぱり、いろいろ思い出すねえ…」。
60年ぶりに自らの被爆地を訪ねた佐伯さん(右)から説明を聞くアリヤさん(左)とアルビナさん(撮影・松元潮) 




1955年に広島入りした原水禁世界大会のソ連代表らに、当時、
中区基町にあった自宅で体験を話す佐伯さん(手前右) 



川の水が注ぎ込み、「原子湖」と呼ばれる核実験場跡地
=2003年8月
(ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト提供)









●クリック 

原水爆禁止運動

  1954年3月1日の米ビキニ水爆実験で第五福竜丸が死の灰を浴びたのを機に、広島や東京を中心に核兵器や核実験禁止を求める声がわき起こり、全国規模の運動に発展。翌55年8月、世界各地の代表も交えて広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。原水爆被害者援護も運動の大きな柱となった。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)
 原爆放射線の人体影響を調べるため米国が1947年、広島に設立。当時、「調査するだけで治療はしない」と被爆者らの批判も強かった。75年、日米両政府が共同運営する財団法人放射線影響研究所(放影研)に衣替えした。

 セミパラチンスク核実験場
 カザフスタン北東部にあり、広さは四国とほぼ同じ約1万8500平方キロメートル。1949年の旧ソ連による最初の核実験以来、41年間にわたり大気圏、地下合わせて470回前後の核実験が繰り返された。放射能の影響を受けた住民はカザフスタン国内で約120万人とのデータもある。


 



 語り終えて

佐伯さん
若い2人の熱意に感心

 原爆の話をするのは、ほんと久しぶりでした。しかも相手は外国の若いお嬢さんたち。日本、いや広島でも原爆のことを知らん子が多いのに、ほんと感心しました。  一作年の夏ごろ、被爆した人の体験記を読みました。何かに役立ちたい、何かを残したい。人生の最後が近づいた私の中で、そんな気持ちが強くなりました。だから、また話そうと思うようになったんです。  二人とも私の話を国で伝えてくれる。いただいた日本語の年賀状に、そう書いてあったんですよ。


 聞き終えて

アルビナさん
貴重な経験 みんなに話す

 原爆が落ちた時代を生きた佐伯さんの話を聞くことができ、貴重な体験になりました。帰国後に話したい。一人でも多くの人に伝えたい。  でも、被爆者が体験を子や孫に伝えていない実態があるとは、思いもしなかった。カザフでは私より小さな子どもも、被曝に関心を持っている。広島の皆さんにもしっかり考えてほしい。


アリヤさん
苦難越え笑顔 素晴らしい

 おばあちゃん(佐伯さん)は放射能を浴び、腕を失ったのに、頑張って働いて子どもを育て上げた。つらい体験だっただろうに、笑顔で生きていることに一番驚いています。  核兵器に負けず、こんなに素晴らしい生き方をしている人を、セミパラの家族や友だちに伝えたい。おばあちゃんから聞いたことを、たくさんの人に話したい。




担当記者から

 伝わらぬ「原爆」切ない

 「なぜ広島では『原爆』が伝わらないんですか」。約4時間の対話後、アルビナさんは私たちに質問をぶつけてきた。  就職や結婚差別を受けるなどし、息を潜めるように生きてきた被爆者は少なくない。平和問題に関心のある若者たちの目もむしろイラク情勢などに向き、原爆からは離れがちだ…。思い至る事情を説明すると、彼女はうなずいたものの、表情は曇ったまま。広島から5000キロ近く離れ、同じ核被害を知る国の少女は「じゃあ、私が伝える」と別れ際に言った。心強く思う一方、何だか切なくなった。(門脇正樹、加納亜弥


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