原爆病院

包帯もなく カーテン巻いて
傷が化膿 骨まで見えていた
 


 広島赤十字・原爆病院(広島市中区千田町)の一室で、池庄司トミ子さん(77)=呉市=が五十九年前を語る。
大先輩を前に、検査技師の岡山翼さん(26)、看護師の倉田恵里奈さん(23)、光平友子さん(23)の三人は緊張している。



 -池庄司
 体がグルグルと回されましてね。飛ばされていたからでしょう。意識を失い、気付いたときは、地下で子どもを抱えて座っていました。二階からどうやって下りたかは、いまだに分からないんです。

 前日からの夜勤を終え、二階の小児科病棟にいた。八時十五分は、患者の体温や容体を主任に伝えるため、詰め所に戻っている途中だった。

   -池庄司 天井や壁が落ち、部屋の仕切りもみな飛んで、残っているのは鉄筋の柱だけ。私の頭にはガラスの破片が入って、血で目がふさがってきました。後で分かったことですが、肋骨(ろっこつ)に、ひびが入っていました。

   若者三人は真剣な表情を変えない。

   -池庄司
 玄関前を見たら人の山。男女の区別は分からない。みんな真っ黒に焼けて皮膚がむけて。苦しかったんでしょうね、みんな同じ言葉で「水、水、水、水」。守衛さんの部屋の水(蛇口)をひねったら、ポテポテと水が落ちるでしょう。「ああこれだ」と思いました。

   屋根から落ちた雨どいを拾い、コップに使った。世間では被爆直後、「水を飲ませたら死ぬ」との風評が流れたが、院内ではそんな指示はなかったという。

   -池庄司
 あれではね、コップ一杯か二杯がやっと入るくらい。何回取りに行ったか分からない。職業的気持ちで飲ませてあげたい一心で。だけどね、私は実務経験がないでしょう。先輩の命令や指導がないと何もできないんですよね。血が出ていたら押さえてあげるだけ。包帯もガーゼもないので、カーテンをむしって巻いていました。薬瓶も割れて使えなくて。(数日たってからは)傷が化膿(かのう)して、骨が見えている患者さんがほとんど。しかもそこにはウジ虫がいっぱい。

   「何でも尋ねてくださいね」と促されても、三人はまだ、言葉が出ない。

   -池庄司
 お医者さんからは、ウジ虫が膿を取るガーゼの役を果たしているので取ってはいけないと聞きました。(こう言っては)申し訳ないけど、(詰めかける被爆者は)がれきの山のよう。近くの川に毛布を洗いに行ったら、死体が重なって水のところなんてない。身震いしましたね。お母さんは亡くなっているのに、その体をさすっている子どもの姿もありました。病院では、死んだ人をどんどん燃やしていったんです。

   軍人と職員の遺体の腕には、身元が分かるよう印になる物を付けて焼いた。一般の患者にそこまでする余裕はなかった。

   -池庄司
 ある婦長さんがね、一般の患者さんの名札を切って持っていらっしゃった。「どうなさるんですか」って聞くと、「家族の人が尋ねてきたら、これでも大事だから」と。

 -倉田
 大人数の患者さんが突然に押し寄せてこられるわけじゃないですか。私はまだ二年目。私なら退いてしまいそうです。怖くて動けなくなかったですか。

 -池庄司
 怖いなんてないし、退くに退けない。みなさん、しがみついて「水、水」ですからね。何とか探してきてあげないといかん、という気持ちだけでした。

 -岡山
 検査技師の私は、オロオロしてしまいそうです。

 -池庄司 その場になれば、今までの経験は生きますよ。あのとき、(勉強に使う)ろう人形でろうそくを作ってくれたのも技師さんだったです。患者さんや私たちに配ってくれて。真っ暗ななかに明かりがあるというのは怖くもあったけど、うれしくもあって。

 -岡山
 でも、自分一人では、何もしてあげられないと思います。

 -池庄司
 どうにかしてあげようという気持ちが働きます。心配せんでも。自分の仕事をしていれば、いざというときには必ず生きます。

 -光平
 自分が傷ついているなかで、そう思えるのがすごいですね。

 -池庄司
 仕事をしているときは、痛みは分からないです。

 -倉田
 私たちは患者さんに接するときに、余裕がないんですよね。

 -池庄司
 自分自身が優しさを持っていれば大丈夫。家族のため、一生懸命に名札を切ってあげる婦長さんの心に、私は打たれたのです。ああいう気持ちで看護に当たらなくちゃいけないって。自分が、死んでもおかしくないところにいたのに生き抜いたのは、そういう使命があったんでしょうね。

 -倉田
 あっちゃいけないけど、もしも今、戦争などで人が押しかけてくる状況があったとしたら、何かができると思いますか。

 -池庄司
 できると思いますね。医者の代わりでも。やってみようと思います。住んでいるところで何か災害があったら奮起するでしょうね。勉強しなくちゃいかんことを、私は被爆者の皆さんから教わりました。亡くなった方に、恩返ししないと。

 -光平
 嫌なこととか、苦しかったことを思い出したくないのではないですか。

 -池庄司
 苦しいとか、嫌だという感情は起こりませんよ。自分がいつか倒れて死ぬかもしれないという恐怖心は、(その年の)十一月に実家に帰ったころにありましたね。友だちがコトッと死んだのを見たときです。

 -倉田
 何人かの患者さんをみとったのですが、家族の人と一緒に最期をという気持ちになります。名札を取っていた婦長さんのやってらしたことの根本にあるのも、そういう思いですよね。

 -池庄司
 そう。私も優しさをいただいたんよ。

 池庄司さんは笑顔で見つめ返す。

   -倉田
 私たちはテレビや映画でしか戦争を見たことがありません。

 -池庄司
 原爆の話をいくら聞いても、あなた方に実感がわかないのは当然だと思います。私も小さいころ、おばあさんから日露戦争の話をよく聞きましたが、絵本のような話。それと同じこと。実際に当たった人でないと分かりません。

 -岡山
 原爆の体験者と話すのは初めて。つらかったり、悲しかったりした話になると思ったのですが。

 -池庄司
 大きな犠牲の上に復興しなくちゃ駄目でしょう。つらいとか悲しいとかいうのは、愚痴だと思うんです。

 -光平
 心に染み、勉強になりました。患者さんへの愛をもって看護することが大切なんですね。

 -池庄司
 希望を捨てるものではないですよね。


院内の標本室で、池庄司さん(右端)の話に聞き入る
左から倉田さん、光平さん、岡山さん(撮影・今田豊)




被爆者の包帯交換に追われる看護婦
(1945年10月撮影、米軍返還資料)



廃虚の中の広島赤十字病院。
傷ついた人々は
赤十字のマークを目指した(米軍返還資料)







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広島赤十字・原爆病院

 1939年に日本赤十字社広島支部病院として設立。広島の被爆者医療の拠点として56年には敷地内に原爆病院を併設した。88年に広島赤十字病院と原爆病院が合併した。現在、原爆病棟(6号館)の入院患者のうち被爆者は約10人。在外被爆者の渡日治療も受け入れる。93年の旧本館取り壊しの際、原爆の爆風でゆがんだ窓枠は周囲の壁ごと切り取られ、モニュメントとして正門横に保存されている。


 



 語り終えて

池庄司さん
あせらずに 心を強く持って

 倉田さんと光平さんは、母のようなぬくもりで患者に接してあげて。岡山さんは、体の一部である血液から顔を思い浮かべてあげてください。  原爆を想像できなくても無理はありません。でもね、被爆者一人ひとりにつらい記憶があることを理解し、仕事と向き合ってください。あせらずに。自然と語り出すまでは、無理に聞き出さなくてもいいと思いますよ。  けが人がたくさん詰め掛けることがあっても、きっと大丈夫。かつての私にはなかった技術を信じて。心を強く持って。


 聞き終えて

倉田さん
勇気と責任感を感じた

 「怖い」とか「信じられない」とか、原爆は映画の中の出来事のように受け止めていた。全身やけどの人たちに水をあげることが、どれほど勇気が要ることか。  私だったら、まず自分が助かる道を探すかもしれない。池庄司さんは謙遜(けんそん)したけど、責任感を持ち、自分にできる精いっぱいをされたと思う。



光平さん
看護姿勢顧みる契機に

 傷つきながらも自分を見失うことなく、職業心を忘れなかった池庄司さん。「技術や知識がなく、何もできなかった」と言っていたけど、それでも何かをしようとの使命感に感動した。  他人への思いやりや優しさの大切さを伝えてもらった。日々の看護姿勢を顧みるよいきっかけとなった。


岡山さん
もっと勉強し技術磨く

 機械を相手に仕事し、患者さんと接することがない。目の前でいざ災害が起きたとき、自分に何ができるだろうか。この疑問をずっとぬぐえずにいた。  惨事の中、池庄司さんは心を強く持ち、できる限りを尽くしていた。その強い心を引き継ぎたい。もっと勉強し、技術にも磨きを掛けたい。




担当記者から

 若者の言葉にハッとした

 「自分たちが同じ立場だったら、きっと何もできない」。若者三人の感想にハッとさせられた。原爆投下当日の被爆地を五コマだけ撮影した先輩カメラマンは「あまりにむごくて…もう撮れなかった。涙でファインダーが曇った」と言っている。その言葉も頭をよぎった。  私たちだったらどうする。惨状から目をそむけずに取材、報道できるだろうか―。「絶対にやらんといけん」「正直、どこまでできるか分からん」。二人の思いは分かれた。 (桜井邦彦、門脇正樹


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