遺髪と腕時計

今話さなくては忘れ去られる父の形見
資料館にあれば安心
 


原爆資料館(広島市中区)の案内ボランティアで被爆三世の中本真樹さん(25)が、
被爆者の松本了さん(77)、幸子さん(75)夫妻を廿日市市阿品台の自宅に訪ねた。
了さんが守り続けてきた妹の遺髪に触れた。幸子さんが語る父の思い出に耳を傾けた。



 -中本
 私の祖母も被爆者です。最近は少しずつ体験を聞かせてくれるようになりました。松本さんたちが話し始めたのはいつごろですか。

 -了
 十年余り前です。原爆で亡くなった妹=登美枝さん=の母校(広島女学院)が制作した原爆ドキュメント映画で証言したのが初めてだったと思います。だんだん真実が薄れてくる気がして、何かの役に立ちたかったんです。

 -中本
 原爆が落とされたときの様子を聞かせてください。

 -了
 段原中町(南区)の自宅におりました。妹をすぐに捜しに行きました。

 了さんは市中心部を歩き回ったという。母校の広島一中(現国泰寺高)の近くも通った。

 -了
 (やけどだけではなく)倒れた塀で女性が圧死したりと、とにかく死体がたくさんありました。水を飲ませてはいけないと兵隊から言われ、一滴もあげることができなかった。それが今でも心に引っかかっていて。飲ませてあげればよかった。

 -幸子
 学徒動員で皆実町(南区)の専売局にいました。シューという音がして、ガラス越しに外を見ると風景がオレンジ色。地球が燃え出したと思いました。友人が「キャー」と言い始め、ドーンという音で真っ暗になったんです。

 たばこをつくる広島地方専売局で、学徒たちは箱詰めなどの作業をしていた。

 -了
 私の妹は雑魚場町(中区)で建物疎開をしていたんですが、夕方になっても帰らなくて。あちこち捜したけどいない。(三日後の)九日にようやく、今の県立広島病院(旧広島陸軍共済病院)で見つけました。暗幕をふとん代わりにしていました。一枚板にのせ、家に連れて帰りました。翌朝、「トマトを食べたい」と言うので父が買いに走りました。でも間に合わなかった。昼前に死にました。

 淡々と語る了さんを幸子さんと中本さんが見つめる。

 -了
 「思い出すと悲しくなる」と言ってね、母は妹の持ち物をすべて燃やしました。着物も文房具も。遺髪は私が強引に切りました。その時に着ていたブラウスを破って髪を束ね、ヘアピンで留めたんです。

 -中本
 触ってもいいんですか。

 了さんが陶器のつぼから取り出した遺髪を、中本さんは両手で受け取った。目を離さない。何度か口を開きかけるが、言葉が出ない。

 -了
 妹のものは、これしかないんですよ。大野町の墓地に納めた遺骨は(その年の)九月の台風で流れてしまい、海の底に沈みました。遺髪をとっておいてよかった。戦争は惨めですよ。民間人でも関係ない。

 -幸子
 ほんと。ほとんどの人が下痢したり、熱が出たり。頭がザクロのように割れ、骨が見えていた同級生もいたんですから。

 中本さんは遺髪をつぼに戻した。のど元の言葉はまだ出ない。

 -了
 妻の父=横山繁さん=は、大手町国民学校(中区にあったが現在は廃校)で建物の下敷きになりました。前日に腕時計を職場(高等女学校)に忘れたから、あの日は義母の時計を持って行ったんです。そのおかげで骨が見つかったんです。

 -幸子
 そう、奇跡ですよ。母と私は市内を捜し回ったんですが見つからなくて。知人から、父がいた場所を教えてもらったんです。あのバンドが革だったら焼けて残っていなかったでしょう。でもね、見つけたのは被爆から三週間後くらいと思っていたけど、どうも二週間後らしいんです。最近、いとこと話して分かりました。

 -了
 昔のことを話す機会が、そうないからね。定かではない記憶を話してしまうことだってあるから。

 -幸子
 遺骨を見つけた日も、私は母と二人だったと思っていたけど、いとこも一緒だったみたい。そのいとこの話では、灰を手で一生懸命かき分ける母の横で、私はぼうぜんと立っていたというんです。はっきりと覚えていない。

 -了
 人の記憶はいいかげんなものかもしれません。無意識のうちに誇張してしまうこともあるかもしれません。若い人たちは、それが真実だと誤解してしまう。

 -中本
 真実が変わってしまうことに、危機感があるんですね。

   -了
 原爆は、それはもう、哀れなものです。印象的な光景が誇張され、それで事実がゆがんでしまうのは、どうしてもいやなんです。

 沈黙を補うように、中本さんがゆっくりと言葉を継ぐ。

 -中本
 私の祖母は人前で語ることを「まるでお祭り騒ぎみたいで、何か違う」って本当に嫌がっていました。でも最近、近所の小学校で体験を初めて語ったんです。私がピースボランティアをしていることに影響されたみたいで。

 -了
 あなたのおばあちゃんもきっと、自分の口で真実を伝えたいのでしょう。私たちが今話さなくては、あの日が忘れ去られてしまう。(妻の父の)腕時計も汚くなったので、百年もたてば捨てられてしまうかもしれない。それで、資料館に寄贈しようと妻と決めました。

 -幸子
 あそこにあれば安心だと思いまして。

 -了
 私はね、(妹が)かわいそうで。遺品はこれ(遺髪)しかない。骨がないんですから。おやじとおふくろの墓に入れてやるのが、妹の幸せだと思ったんです。

 -中本
 私は、被爆者の話を伝えたいと思っています。でも、原爆資料館に来る高齢者は戦争体験者も多くて。若い私の説明だと物足りないのではと、自信をなくすこともあるんです。

 -了
 でも、あなたたちの世代で興味がある人は少ないんですよ。あなたのような方がいるのは、本当にうれしい。原爆は即死もあれば、だいぶ後になって死ぬことがあります。恐ろしい兵器です。あんなものは絶対に使ってはいけない。

 -幸子
 私は今も、手で押さえたら痛いところがある。ガラスが入っているんだと思うんです。

 幸子さんは自分の頭をさすった。

 -中本
 広島出身でない友人が、平和教育を受けたことがないと話していました。今でこの状況なら、この先、もっと先細るって思うんです。

 -了
 私も十年前なら黙っていたかもしれない。やっぱり墓場が近づいているのかな。誰かがせんと、いけんのんですよ。



妹の遺髪を手に中本さん(左)に被爆当時を語る松本了さん(中)と幸子さん(撮影・福井宏史)



名前と死亡年月日を記した紙を添え、
つぼに納められている登美枝さんの遺髪



被爆死した横山繁さんの
真珠のバンド付き腕時計




松本登美枝さん



横山繁さん









 



 語り終えて

了さん
誇張され伝わるのは耐え難い

 自分たちの記憶は、時間とともにあいまいになる。六十年もたてば勘違いだってある。わかってはいても、誇張されたり間違ったりしたあの日が残るのは耐え難い。
 若い人は、複数の被爆者から証言を聞くなど工夫し、できるだけ事実を伝えてほしい。もちろん私たち自身も体験を誇張したりせず、真実だけを伝えていくよう努力しなくてはいけない。
 あの日がいかに悲惨だったか。とにかく核兵器は悪だ。



幸子さん
なぜ争うのか疑問でならない

 平和を求める気持ちは人類共通だろうに、なぜ世界中で戦争が起きているのか。ずるずるに皮膚がむけ、うめき苦しみながら死んでいった人々。大切な人たちを一瞬にして奪われるつらさ。目の当たりにした私たちには、どうして戦争をするのかが疑問でならない。
 その体験を積極的に後世に残そうとしてくれる若い人たちには、本当に感謝している。あんな思いは二度としたくないし、誰にもしてほしくないから。


 聞き終えて

中本さん
遺髪手に涙こらえた

 つやが残る遺髪を手にしたとき、必死で涙をこらえた。罪のない命が無差別に奪われた事実が重くのしかかってきた。
 被爆者自身の記憶も風化しつつあるとわかった。一方で私たちには、できるだけ正確にあの日を伝えていきたいという思いがある。今後自分はどうしていくべきか、強いジレンマを感じた。
 それでも「頑張って」と励まされたことはうれしかった。自分なりの方法で、伝達者の役割を続けていこうと決めた。




担当記者から

 遺品の雄弁さ気づいた

 かたわらで聞きながら少しばかり違和感を覚えた。対談の内容ではなく、「伝えたい」という中本さんの熱意に。
 彼女は、休みを削って原爆資料館をボランティアで案内している。若者たちの間では、ごくまれな存在なのだろう。被爆者の祖母が言葉少ないことが、かえって原爆被害を「知りたい」と思う源泉なのかもしれない。
 私たちも取材するようになって初めて、原爆の問題に正面から向き合い始めた。焼け焦げ、傷ついた遺品がいかに雄弁かに、やっと気づきだした。(桜井邦彦、加納亜弥


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