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似島 |
検疫所「水くれー」 うめき声
明くる日には死んどった
似島(広島市南区)を訪ねた久保絵美さん(21)、高松由紀さん(22)、平尾愛さん(20)たち三人は、
被爆者の大下常夫さん(76)とともに、島内を巡った。
-大下 建物疎開で家が解体された人の荷物を船で運び出すため、早朝から観音本町(現西区)の土手で作業しとった。空襲警報がやかましゅう鳴りよってからに、ようやく静まったころピューッと飛行機が見えて、何かが落っこちてきた。 -平尾 それが原爆だったんですね。 -大下 うん。見とったらピカーッと光った。「あちいのう」と思って走ったところまでは覚えとる。正気に戻った時には、素っ裸で川に落ちとった。気が付かんかったら、そのままおぼれ死んどったかもしれん。原爆をピカドンと言うが、わしは気絶しとったけえ「ドン」の音を聞いとらんのよ。 -平尾 周りには、どんな光景が見えましたか。 -大下 火の海よ。焼けた体を冷ましたかったけえ、川に垂れ下がったロープにつかまって、とにかくじっとしとった。そしたら、何やら赤いもんが落ちてきてね。 -平尾 赤…。 -大下 人間じゃった。 -久保 うわっ。 -大下 爆風で舞い上がったのか。恐ろしかった。船に戻ってエンジンをかけとったら、けがした人が「助けて」と言うてきた。島へ帰るけん、だめですよと言ったら、「どこでもいいから連れてってください」と。結局、荷は積まず、二十人近くを乗せて船を出した。皆、指先から皮が垂れ下がっとった。 -平尾 大下さんのけがはひどかったのですか。 -大下 光が当たった右半身が焼けとった。 大下さんはジャージーの胸元を広げたり、袖をまくったりして傷あとを見せた。 -平尾 ケロイド…。あのう、思っていたよりきれいですね。手術したんですか。 -大下 五十年、六十年たてば傷は薄くなる。焼かれた時は、こんなもんじゃなかった。 息をのむ三人。 -平尾 島には大勢の傷ついた人が運ばれたんですよね。 -大下 島の病院はけが人でいっぱいで入りきれんかった。寺(似島説教所)も治療場になっとったけん、服を着替えてから向かったら、「第二検疫所が臨時の野戦病院になっとるけえ、そっちへ行け」と言われた。困ったのうと思い、立とうとしたら、それまで平気だった足が急に動かんようになってしもうた。気が緩んだのかもしれん。峠の向こうにあった第二検疫所には、若い者が担架で運んでくれた。 四人は検疫所があった市似島臨海少年自然の家へ。大下さんは、自分が運ばれた小屋があった竹やぶの前で、再び記憶をひもといた。 -大下 けが人が何千人とおった。えっとおるけえ、当然薬はないわのお。大きな兵舎小屋が三つあって、わしは一番上の倉庫に運ばれた。何日か後、一回目の空襲があった。付き添ってくれたおやじとおふくろが、近くの防空壕(ごう)に運んでくれたが、やけどに湿気がしみて痛い。張ったばかりの薄皮の下にウジがプツプツわいて…。暗くて、とってもらうこともできんから、すぐに(防空壕から)出た。それからは、警報が鳴っても(検疫所から)動かんかった。焼夷(しょうい)弾が落ちたこともあったが、不発だったので命拾いした。 -久保 検疫所の中の様子を聞かせてください。 -大下 「水をくれー」って、うめく声が響いてね。ほいで、蛇口ひねって飲んだ者は、明くる日に死んどった。原爆で行方知れずとなった家族を捜す人が連日詰め掛けたが、寝とる者は顔をひどう焼かれとるけん、よう見つけんかった。母親がなんぼ捜しても見つけられんかった娘を、後から来た父親が見つけたこともあった。 -平尾 検疫所には長くおられたのですか。 -大下 治療してもらえんから、二週間ぐらいで家に帰った。死んだ人らが島のあちこちに埋められたらしいが、検疫所におる間もずっと寝たきりじゃったけえ、よう分からん。体の右側が、床や隣の人に当たると痛くて、左に傾いて寝とったら、しりに床擦れができた。 -高松 被爆者ということで、島の人の接し方とか見る目とか、変化はありませんでしたか。 -大下 そがいに変わりゃあせんが、年下の者は、やけどのあとがある者を「おーい、ピカドンか」とあだ名を付けてはやしたてた。ありゃあ正直つらかった。それと、何年か後にもらった原爆手帳(被爆者健康手帳)。治療代がタダじゃ言われたけど、お金を出した方がええ薬がもらえるような気がして、最初のころはよう使わんかった。 -平尾 原爆を落としたアメリカが憎いですか。 -大下 国と国の戦争。やられても、仕方がなかった。 -平尾 私なら憎む。 大下さんの大きな声が、すっと小さくなった。瞳もわずかながらにうるんでいる。被爆する前、呉市でも空襲に遭った経験があるためか、戦争そのものに「あきらめがついとる」と言う。 -高松 被爆したことを誰かに話したことはありますか。 -大下 ない。島の者は皆、わしが被爆したことを知っとる。それ以上は何も聞いてこん。家族も同じ。誰にも言わず、あの世まで持って行こうと思っていた。この夏、たまたま遺骨が出て、あんたらが、当時を知るわしを訪ねてきたから話しただけよ。 -久保 遺骨が見つかった場所には、行ってみられましたか。 -大下 行っとらん。長いこと土の中におった人にとっては気の毒なことよ。デイサービスに向かう車で週に一回近くを通るが、まじまじと見ることはない。わしも助かったのが不思議なくらい。 四人で遺骨発掘現場に向かった。この夏に掘り起こされた跡はもう、雑草がまばらに生えている。犠牲者を悼む碑に手を合わせ、一帯を歩き回る。 -大下 骨はどの辺りから出てきたんかね。 -平尾 私たちも実際には見ていない。後で島の人から写真で説明を受けました。 -大下 あの辺りかのう。 最初に遺骨が見つかった廃屋近くの地面に目をやる。 -久保 ひょっとしたら、私たちの下にまだ眠っている人がいるかもしれない。大下さんの隣にいた人かもしれない。 -大下 そうじゃね。そうかもしれん。何とかしてやれんもんかねえ。 |
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語り終えて |
大下さん 焼かれた記憶 簡単に消えぬ 被爆体験を初めて人に話した。それ以上に、遺骨の発掘現場に連れて行ってもらったことが、わしにとっては大きな出来事だった。 体のケロイドはだいぶ薄うなったが、焼かれたときの記憶はそう簡単には消えない。三人とのやりとりでは、強がってみせたりもしたが、地獄絵図のような光景を思い出すのは、やはりつらい。 島では「掘れば、まだまだ遺骨は出る」との見方もある。原爆は島にも傷を残しているということを忘れんでほしい。 |
聞き終えて |
久保さん 体験談の中に真実 「被爆者は米国が憎いだろう」という固定観念は見事に覆された。戦争体験のない私たちは、戦争関連の写真や映像を見ても実感はわかない。被爆者がいなくなったら、固定観念などでゆがめられた歴史を伝えてしまう恐れもある。真実を伝えるには、多くの被爆体験に耳を傾け、できるだけあの日に近づくことが一つの方法かもしれない。 高松さん 何ができるか自問 自分の被爆体験を「戦争という状況下では仕方なかった」と振り返る大下さんと話し、若い世代の中で原爆像が一人歩きしている気がした。「ヒロシマの人間として」との使命感だけで自己満足していた気がした。思いと行動をどう継続させるか。平和という抽象的な概念にとらわれず、明確な目的を持って自分に何ができるかを考えたい。 平尾さん 戦争 底知れぬ恐怖 大下さんの証言は想像を絶していた。それさえ「仕方なかった」と納得させてしまう戦争に、底知れぬ恐怖を感じた。悲惨な体験はあまりにも重く被爆者たちにのしかかり、言葉では語りつくせないのが、さぞもどかしいことだろう。私たちにできるのは、知識と想像力を総動員して体験に思いをはせ、同じ痛みを他の誰かに与えないこと。 |
●担当記者から 60年の沈黙 重みを痛感 島から帰る船上で学生たちは「今日聞いた話は、大下さんの人生のほんの一部なんだろうね」と漏らしていた。聞き取りは約四時間。六十年近くも潜めていた思いをすべて受け止めるのは、一朝一夕にはいかない。もっと時間が必要だったかと、島から目を離さない三人を見て痛感した。 遺骨の発掘現場にある墓石に、新しい花が手向けてあった。きっと島の人の心遣いだろう。この夏、マスコミが詰め掛けたのがうそのよう。ひっそり静まり返り、どことなく後ろめたかった。(門脇正樹、加納亜弥) |