電車内で

あの日をどう伝えればいいか 80年生きても見つけられない
 


土岐龍一さん(79)は、自らが被爆した場所へと
広島修道大の井上裕可里さん(22)、絹井玲奈さん(21)、
諸岡陽介さん(20)の三人を案内した。
広島市中区、縮景園の近く。



-井上
 電車には大勢の乗客がいたんですか。

-土岐
 ほぼ満員でした。真ん中少し後ろ寄りに座っていたら、突然後ろ側から光を浴び、目の前は真っ白。次の瞬間に真っ黒な灰が車内に立ち込めた。とにかく逃げようと必死で、周りがどうだったかは…。われに返った時には車外にいました。

 原爆の熱線は首の後ろ側を焼いた。深い切り傷を負った右耳は遠くなった。土岐さんは無意識にか、その傷あとを何度もなで回す。

-井上
 どんな光景でしたか。

-土岐
 建物がみな倒れ、街は灰で真っ暗。「電車事故じゃない」とは思ったが、何が起きたのかさっぱり分からなかった。逃げるさなか、柱や壁の下敷きになった人たちの悲鳴を聞いた。立ち止まる余裕なんてありません。ひたすら家の方向に駆けた。

 土岐さんは薄れた記憶に言葉を詰まらせる。「覚えてない。申し訳ない」と繰り返す。

-諸岡
 電車でどこへ向かっていたのですか。

-土岐
 広島文理大(現広島大)で科学研究所の手伝いをしていた。持って行く本が見つからなくて、あの日は家を出るのが三十分遅れた。いつも通りなら、命はなかったろうなあ。

-諸岡
 どんな本だったのですか。

-土岐
 大事な本だった気がするけど、覚えてない。今も見つからない。

-井上
 偶然の忘れ物とは運が良かったですね。

-土岐
 当時は、そう思う暇もなかったけどね。

-井上
 家族は無事だったんですか。

-土岐
 母と二人暮らしだった。母は家の中で爆風に飛ばされたが、テーブルに守られたらしい。無数のガラスが突き刺さった津軽塗のテーブルを今も大切にしまっていますよ。

-諸岡
 けがの治療は大変だったでしょう。

-土岐
 その晩、四〇度を超す熱に浮かされた。母親がどこからか出してくれたミカンが、何ともうまかったなあ。やけどには肝油を塗ってガーゼをかけた。カチカチに固まり、一カ月は、はがれなかった。

-諸岡
 当時、二十歳ですね。以後、人生が一変したんですか。

-土岐
 原爆は僕にとって人生の転換点。生まれてからの二十年は軍事下の環境に支配された。今と違い、民間人も戦争に参加していたからね。戦後はとにかく、無我夢中で生きた。被爆した事実と向き合ったのは、心と時間に余裕ができた老後になってからです。

-絹井
 胸にしまい続けてきたのですか。

 聞き役に徹していた絹井さんが、遠慮気味に質問を投げ掛けた。

-土岐
 この夏初めて話しました。被爆者が少なくなったからと、知人に証言を頼まれて。高校教員だったころも話してないし、子や孫だって知らない。

-井上
 被爆したうちの祖母も体験を話したがらない。そのせいだけではないけど、身近にあるはずの原爆がイメージできない。震災を思い浮かべればいいのかな。  絹井 私も祖母が被爆者健康手帳を持っている。小中学校で毎年のように平和集会を開き、平和の反対としての原爆を何となく学んだ。ピンとこないのは私も同感。

 うなずく土岐さん。少し間を置き、言葉を切り出した。

-土岐
 きっと、平和が知識にとどまっているんじゃないかなあ。本当に平和を願うのなら、思いが自然とわき起こってくるはず。

-井上
 そうかもしれない。平和教育は「やらされていた」気がする。被爆者を招き、原爆はいけない、戦争はいけないと訴えるだけ。正直うんざりだった。継承はしなければならないとは思っているけど…。

-土岐
 あのすさまじさは、体験した者にしか分からんと思いますよ。

-井上
 それじゃ誰かに伝えようにも、伝えられないのではないですか。

 高ぶり、食い下がる井上さんをなだめるように、土岐さんが真意を説明する。

-土岐
 被爆は追体験できない。でも、世界初の大量破壊兵器が広島で使われた。その事実を忘れてはいけない。どう伝えたらいいか考えてほしい。僕も八十年近く生きて、答えを見つけられずにいる。

-諸岡
 広島出身でない僕には、原爆と東京大空襲で失われた命の重さが違うとは思えない。なぜ原爆被害ばかりが特別視されるのですか。

-土岐
 原爆はたった一発で多くの命を奪った。放射能による後障害と向き合って生きねばならない恐怖もある。しかし、あなたが言う通り、戦災の一つでしかないかもしれない。

-井上
 でも「広島人」には、伝えていかなきゃいけない重圧がある。その重さが若者を平和への取り組みから遠ざけているのではないですか。平和運動を担っているのは高齢者ばかりでしょう。

-土岐
 楽しいことではないので、安易には取りかかれない。思いが強い人たちに任せてしまいがちになる。僕もその一人だった。踏み込めなかった。本当は平和運動に加わりたかった。誰かが何かをしないと世の中は動かないからね。でも、政治運動と化し、一般人が加わりづらい体質が異質に映った。

-井上
 難しいですね。原爆と平和をどう受け止めたらいいのか。どうすれば強い思いが生まれるのか。結論はすぐには出ない。

-諸岡
 もっと考えなきゃ。簡単に結論が出せないからこそ、考えなきゃいけない。

-土岐
 何を伝えたいかを考えてほしい。被爆の実態か、大量破壊兵器の恐ろしさか。原爆投下の事実を、戦争や歴史の一部としてとらえてみるのも大切かもしれない。

-絹井
 被爆者の体験をじっくり聞いて「平和って何じゃろ」って考えてみる。それが平和につながるのかもしれない。


「無我夢中だった」。土岐さん(左から2人目)は59年前に逃げ泳いだ京橋川のほとりで、諸岡さん(左端)、井上さん(同3人目)、絹井さん(右端)に惨状を聞かせた(撮影・松元潮)




車体が黒こげになり、軌道から外れた路面電車。原爆投下3日後、故・岸田貢宜さんが中国配電(広島市中区、現中国電力)付近から南に向けて撮影した(岸田哲平さん提供)










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被爆電車

 広島電鉄によると、当時所有していた123両のうち、爆心地から5キロ圏内を運行していた70両が熱線に焼かれた。被爆3日後には己斐―天満町(西区)間の路線が復旧し、焦土と化した街を駆けた「一番電車」が市民を勇気づけた。一部車両は修繕を重ね、今も現役で走り続けている。


 



 語り終えて

土岐さん
若者に想像させるのは難しい

 体験したそのままを伝えるのは、どんなに言葉を尽くしても足りない。できる限り詳しく話したつもりだったが、今を生きる若者に惨状を想像させるのは難しいようだ。  とはいえ、その語り尽くせない被害の実態を世界に発信し続けるのが、世界で初めて核兵器を使われた広島の役目。若者たちは、被爆者の話を論理的にかみ砕き、伝える手段を見つけてほしい。声高に叫ぶだけではいけない。じっくり考えて。


 聞き終えて

井上さん
質問して気持ちに変化

小学校から高校まで平和教育にどっぷり漬かった。義務と思う半面、飽き飽きしている自分がいた。平和に関する知識は増えたが、気持ちの面で進歩はない。そんな自分が平和を語れるのか。次世代へ、世界へ伝えられるのか。
 今回初めて、被爆者の証言に質問を投げ返した。少なからず気持ちに変化が芽生えたと思う。



絹井さん
痛み知ることが第一歩


 高校時代に米国で迎えた「原爆の日」に、ホームステイ先の男性から謝罪された経験がある。その時は、被爆の実態を話せなかった。
 平和とは何か。今回の聞き取りで、ますます分からなくなった。知人の韓国人は「原爆のおかげで日本から解放された」と言う。それぞれの歴史や痛みを知ることから始めるしかない。



諸岡さん
人生すべてが被爆体験


 土岐さんは被爆後の五十九年間、生きることに無我夢中だったと言っていた。その言葉に大きな重みを感じた。人生すべてが被爆体験なのだと思った。
 戦争では全国各地が空襲を受けた。焼夷(しょうい)弾など他の兵器も人を殺し、街を破壊する。威力が弱くても決して使用してはならない。その点は、原爆と変わらないと思う。




担当記者から

 熱っぽい対話 新鮮だった

 学生三人は、土岐さんの電車内での被爆体験に着目し、質問を繰り返す。そんな展開になると予想していた。しかし、対話はそれぞれの平和観になると、にわかに熱を帯びた。思いを包み隠さずに議論する場面は、新鮮でもあった。
 四人は「何か、もやもや感が残った」と言い、その後も電話や電子メールで私たちに意見を寄せてくる。言いっ放し、聞きっ放しに終わっていない。いい意味で予想を裏切られた心地よさが残っている。(桜井邦彦、門脇正樹


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