中国新聞
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2003/05/13
 デルタ貫く復興の足跡 ■■

 広島デルタを幅員百メートル、東西四キロにわたり貫く平和大通り。通称「百メートル道路」は、被爆からのヒロシマの歴史を刻む。

 大通りの原形は一九四五年にさかのぼる。政府の命令で空襲に備え幅百メートルの防火地帯を設けようと、今でいう中学校や職場、町内会から人々が動員され、東は鶴見橋から西は小網町一帯で家屋を取り壊していた。原爆は八月六日、その頭上でさく裂した。建物疎開作業中の動員学徒だけで少なくとも五千六百十八人が犠牲となった。

 爆心地の中島地区を公園とし、東西に延びる二本の百メートル道路をつくる―。翌四六年に決まった復興計画は不興をかった。「なぜ広い公園や道路がいるのか」。市民はバラックを建て、雨露をしのいでいた。百メートル道路は一本となり、その建設は、いばらの道にも似た復興の営みとなった。

 整地が済んでも舗装は進まず、雑草が茂り、昼間でさえ人通りは少なかった。五五年の市長選では、大通りの縮小を公約にした候補が当選した。西の観音、福島地区を抜け、己斐まで全通したのは高度成長期に入った一九六五年五月。緑の樹木が光に映え、ビル群が続く今見る光景は、九〇年代にできあがった。

 今、広島市は、平和大通りの「新世紀リニューアル」に乗り出す。片側二車線の車道をバスや緊急車両のレーンを加えて三車線とし、大通りのシンボルである平和大橋と西平和大橋の架け替え方針を昨年十月に示した。都市機能の高度化、にぎわいや憩いのある魅力ある空間づくりを目指す。民間資金活用による社会資本整備も取り込む事業化の手法など、「目途がついた段階で基本計画を公表したい」という。

 市が五〇年にまとめたガリ版刷りの「広島平和都市建設構想案」には、「平和緑道」と呼んでいた大通りについて、このようにうたっている。

 「広島を訪れる人々や、市民の平和を希求する心を平和公園に鳩合(きゅうごう)する通路となるであらう(略)公園から湧出(ゆうしゅつ)する雰囲気を全市に布衍(ふえん)すると共に世界の各地に伝える通路となるであらう」

 廃虚から生まれた平和大通りに込められた思いを受け継ぎ、かたちづくっていくのは、時代が移ろうともヒロシマの務めであるのは変わらない。(編集委員・西本雅実)
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日米の共同作業(51年)
祈りの場への橋(52年)
テニスコートもあった(64年)
戦車も走った(65年)
歓喜の大通り(75年)
市民の祭りスタート(77年)

半世紀の対比
(1)
1953年7月に比治山(南区)から撮影。手前は鶴見橋。左に見える5階建てビルは、被爆で焼け残った中国電力本店(84年解体)。作家大田洋子は、被爆8年後の広島を描いた「夕凪の街と人と」で、平和大通りを「市民の方でそれを愛していませんから、草も花も、木も育ちはしません」と登場人物に語らせている。日々の生活にあえぐ被爆者ら市民は、大通りの建設にみられる復興のあり方を冷ややかに見ていた。当時の人口は約34万5千人。
(2)
現在の大通りをほぼ同じ角度から空撮。車道は片側2車線の16メートル、緑地帯は片側20.5―24.5メートルなど、幅員100メートルは変わっていない。鶴見橋は、復興後も歩行者専用で車は行き止まりだったが、90年に架け替えられ、93年の比治山トンネル開通で南区段原地区とも結ばれた。市の推計で平日の交通量は、中区小町前(上部)で日中3万3千台。樹木は57年からの広島県民の供木提供により一気に増え、高木は111種、2178本が生い茂っている。
(3)
西側からとらえた平和大通り。奥が鶴見橋。デルタを貫き、元安川に架かる平和大橋(上)と本川に架かる西平和大橋が、平和記念公園への導入路でもあるのが分かる。平和大橋の東側の交差路が白神社前。大通り北側の高層ビル群は、80年代から94年の広島アジア競技大会までに建設されていった。現在の人口は111万8千人。
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