炸裂… 人は街は2003.8.6

 広島市に史上初めて一九四五年八月六日に落とされた一発の原子爆弾で、人間は、街はどうなったのか。核兵器は二十一世紀の今も存在し、世界を脅かしている。

 原爆は。三方を山で囲まれたデルタのほぼ中央、上空六百メートルで炸(さく)裂した。火球温度は百度を超え、数十万気圧の圧力が衝撃波と広がり、ガンマ線など大量の放射線が飛び散った。約三十分後からは「死の灰」を含んだ黒い雨が北西部にかけ広範囲に降り注いだ。原爆の威力と悲惨さは、想像を絶している。

 一体どれだけの人間が亡くなったのか。国が、全体像の究明を怠ったこともあり、明らかではない。市は被爆の翌年から積み上げた調査などを基に七十六年国連に提出した推計値で、四十五年末までの死没者を「十四万+−一万人としている。

 この被災合成写真は、広島大原爆放射線医科学研究所の協力で最新のデジタル技術を用い、被爆五日後の空撮と、現在を重ね合わせ、被爆の実態の一端を表した。

 全壊全焼の地域の境界線は、爆心地から半径二キロ前後に及んだ。一キロ以内で熱線にさらされた人間は約90%が、二キロ以内は遮へい物がない場合で約80%が死亡した。また、放射線の影響がとりわけ強かったこの地域には、親きょうだいらを捜して無数の人間が入った。

 一九四五−ニ〇〇三年を刻む原爆被災写真は、ヒロシマから世界への警告の記録でもある。広島原爆の威力をしのぐ核兵器は今、三万発を超えている。(編集委員・西本雅実)

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【写真説明】【注】広島大原爆放射線医科学研究所の早川武彦教授(疫学)と竹崎嘉彦助手(地理学)の協力で、1945年8月11日の米軍空撮写真(左上)と、2003年6月13日の中国新聞社の空撮写真を、地理情報システム(GIS)を使い合成。赤い線は、全壊全焼の境とみられる区域を日米の各種文献ともに参照して表示した。カッコ内は被爆当時の施設と名称。


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