中国新聞社
消すまい反核の灯

 今は亡き、多くの被爆者たちが平和を願って言葉を残している。それは、時代を超えてなお、力を失わないメッセージである。「2001 被爆者の伝言」物故者編では、二回に分けて、文化人や著名人が生前に中国新聞紙上や著書などで語った言葉を特集する。(引用文の表現などは原文のまま。名前の後は、主な肩書、亡くなった年、年齢)
2001.8.1
物故者編
≪下≫
1990年代以降




 ■愚直でも惨状伝え続ける

 伊東 壮氏   =日本被団協代表委員。二〇〇〇年、七十歳

 山梨大の元学長。国家補償を求める被爆者援護法制定運動の理論的支柱だった。七七年、広島での国際シンポで。

 「ヒロシマの体験を人類のものとしない限り、人類は滅ぶ。被爆者に次ぐヒロシマ、ナガサキの第二の証言者である出席者が、次の世代のために被爆の実相を世界に伝えてほしい」

 三年前のインド、パキスタンの相次ぐ核実験強行では、病身を押してインタビューに答えた。

 「これからも、世界に向けて被爆の惨状を証言や写真、手記、絵などで伝え続ける。愚直と言われても、私たちにはそれしかない。被爆者は老いた。後を継いでくれる若い人たちが今、どれだけいるか。被爆体験を語り継いでくれる人を、どう育てればいいのか。その課題が重くのしかかる。私たちの声に呼応してくれる市民の力、そして政治がどうしても必要だ」



 ■平和をかちとるため行動

 伊藤 サカエ氏    =日本被団協代表委員。〇〇年、八十八歳

 「国は原爆で死んだ人に線香一本でもいいから供え、悪かったと言ってほしい。国家補償を認めさせるまで、絶対に死ぬるものか」

 国家補償に基づく被爆者援護法の実現に執念を燃やし続けた。

 「平和は祈りさえすれば得られるのでなく、行動でかちとっていくものだ」

 東西冷戦の七、八〇年代には、国連軍縮特別総会や欧米に出掛け、体験を証言した。上京すれば、痛む足を引きずり、国会議員や官僚に被爆者援護を訴えた。九八年のインド、パキスタンによる核実験後も「元気だったらすぐにでも飛んでいくのに」と悔しがった。

 「私たちは人間党」

 被爆者に党派や国境の垣根はないと信じていた。



 ■まどうてくれ 援護法が願い

 藤居 平一氏  =日本被団協初代事務局長、九六年、八十歳

 「まどうてくれ。それができないのなら、せめて援護法を、というのが願いだった」

 命や健康、財産を元通りに―の意味を込めた広島弁をよく口にした。広島県被団協発足二十五周年の八一年、結成当時の思いを語った。

 病床で、親友に「やることがある」と語った。

 「すそ野の広い原水爆被害の研究、原水爆禁止運動、放射能障害の根本治療の三分野で、世界本部になるような機関を広島につくること」



 ■「被爆国民」もっと主張を

 丸山 真男氏   =政治学者。九六年、八十二歳

 「戦争で何もなくなった日本が世界に貢献できるものは平和しかない」

 七七年。陸軍一等兵で被爆して以来、三十二年ぶりに訪れた広島での講演を、こう結んだ。

 日本政治思想史研究の第一人者。東大教授を務め、数多くの論文や著作で戦争と平和の問題を論じた。朝鮮戦争や六〇年安保といった歴史の曲がり角で発言、行動したが、被爆体験はめったに話さなかった。その理由が、八三年の書簡の一文にのぞく。

 「小生は『体験』をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシシズム!)が大きらいです。原爆体験が重ければ重いほどそうです」(「丸山眞男手帖 第六号」)

 一人ひとりの体験を基盤に、さまざまなかたちの平和運動に結び付けることを望んだ。

 「日本人は義務として国際社会に対して、被爆国民であることをもっと自己主張していい」



 ■慰霊碑碑文 ヒロシマの心

 荒木 武氏 =広島市長。九四年、七十八歳

 「ヒロシマ・ナガサキは核兵器廃絶が人類生存の必要条件であることを国家、人種、イデオロギーの違いを超えて人類に示しています。私は被爆体験を継承し、その実相を世界に訴えかけていく努力を通じて、国際平和の構築、核兵器廃絶の実現という人類史的課題に寄与するのがヒロシマの使命だと考えています」

 八〇年、中国新聞のインタビューに答えた。四期十六年の在任中に五回、国連本部を訪れ、核兵器廃絶を訴えた。八二年、第二回国連軍縮特別総会の演説。

 「『安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから』の広島の原爆慰霊碑の碑文は全人類の共存と繁栄を願う人道主義に立脚した“ヒロシマの心”だ」

 八五年から始めた世界平和連帯都市市長会議は今夏、五回目を迎える。



 ■座り込み 最も強力な運動

 森滝 市郎氏   =日本被団協理事長、原水禁国民会議議長。九四 年、九十二歳

 「『人類は生きねばならぬ』と私は思わずつぶやく。しかし私だけのつぶやきではない。あちらからもこちらからも同じつぶやきが聞こえて来る。世界のすみずみまでしみとおるつぶやきである」

 五八年、中国新聞に寄せた文の冒頭だ。生涯、人類は生きねばならぬ、と「核絶対否定」を唱え続け、核実験のたびに慰霊碑前に座り込んだ。六二年、最初の座り込みで語る。

 「今が一番大事な時だ。署名運動もやった。集会も開いた。抗議文も出した。私としてはもう座り込む以外には方法がない。ここで核実験の悪循環を食い止めることは広島人である私の義務だ。一般市民も三十分でも一時間でもよいから一緒に座りこんで、抗議の意思を表してほしい」

 「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ」が持論。七八年、百回目の座り込みで呼びかけた。

 「権力を持たない被爆者、民衆にとって座り込みは核権力に抵抗する最もわかりやすく強力な運動だ」



 ■行進の継続が戦争止める力

 市岡 正憲氏 =広島県被団協理事長。九七年、七十四歳

 「戦争をくいとめていく本当の力は、このようにして歩いている一見、無力とも思える行進をし続けている一人一人の力です。手をこまねいて戦争をおびきよせてはなりません」

 六十歳を過ぎて参加した平和行進への思いを八二年、中国新聞に寄稿した。戦争で教え子を失った教師としての自責の念が、戦後の平和教育に打ち込むバネとなった。



 ■ドームの保存義務果たせ

 佐久間 澄氏 =広島県原水協理事長。九一年、八十歳

 「科学の成果が原爆のように悪用されないためには科学者の社会的責任と自覚こそが必要だ」

 広島文理大(現広島大)理論物理研究所の助教授時代、大学構内で被爆した。五三年には、広島の大学の教官らで「平和と学問を守る大学人会」を組織。原水禁運動の草分けでもあった。

 原水禁運動は六三年に分裂したが、原爆ドームの存廃問題では平和運動などの十一団体が歩調を合わせて市に保存を要請。その文面を起草した。

 「保存の方針が決まったときは、人類への義務が果たせた―との思いでホッとした」



 ■原爆描くなあ 宿命じゃけえ

 丸木 位里・俊夫妻=画家。位里氏九五年、九十四歳。俊さん00年、八十七歳

 「わしが原爆を描くなあ、宿命みたいなもんじゃけえ」

 七五年、位里氏はこう述懐した。

 投下間もない廃虚を後を追ってきた俊さんと歩き「原爆の図」を描いた。七七年、埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館十周年で、俊さん。

 「原爆については、まだまだ描きたいテーマがたくさんあるんです。死ぬまで描いても描き尽くせないでしょう」



 ■謝罪も含めた補償を求める

 辛 泳洙氏 =韓国原爆被害者協会会長。九九年、八十歳

 「施し、哀れみを乞うのではない。日本が戦後四十五年間、われわれを放置し、きちんとした手当てをしなかった分も含め、謝罪を込めた補償を求めているのだ」

 日韓条約締結から四半世紀後の九〇年、中国新聞の「世界のヒバクシャ」の取材に答えた。

 在韓被爆者の救済を両国政府に訴え続けた。その間、民間交流での診療医師団受け入れ、渡日治療に道を開いた。



 ■生の声が真実を伝える

 下江 武介氏=広島県被団協理事。九六年、九十二歳

 「熱線や放射能の恐ろしさは頭では理解していても、被爆者自身が体と生の声で伝えてこそ、初めて外国人にもより現実のものとして迫るのではないか」

 七八年、第一回国連軍縮特別総会の参加を前に語る。証言活動で国内はもとより、旧ソ連、英国など海外行脚し、焼けただれた洋服を手に訴えた。



 ■真摯な姿勢 教育の原点

 江口 保氏 =ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会主宰。九 八年、六十九歳

 「君たちが生きるためには、ヒロシマ、ナガサキを見過ごしてはならない」

 七六年、勤めていた東京・上平井中の生徒に広島への修学旅行の意義を説いた。慰霊碑前で被爆者から話を聞く「上平井方式」が生まれた。

 長崎で被爆。退職後の八六年、東京から広島に移り住み、会を発足。受け入れ態勢の不備や、教師の熱意不足にも直言した。九三年の寄稿文―。

 「あの日から間もなく五十年。高齢化し数も減る被爆者から体験と思いを聞くことが何よりも貴重である。ヒロシマに学ぼうという教師の真摯(し)な思いや姿勢があって初めて、子どもたちにも伝わるものがある。『ヒロシマは心の教師である』という人間の教育も、そこから出発するのである」



 ■子どもは常識を培って

 河本 一郎氏 =広島折鶴の会世話人。〇一年、七十二歳

 「平和は願ったり、誓ったりでどうなるものではない。働きかけなければ…」

 六二年、平和活動を始めた思いを振り返った。原爆の子の像の建立を発案し、五八年に小中高校生たちと広島折鶴の会を結成。ドーム保存運動の口火を切った。

 多くを語らなかったが、「子どもを利用している」など心ない批判にはこう答えた。

 「子どもたちは、できることだけやってヒロシマの人間としての常識を培ってくれればいいと思っている。決して子どもに無理をさせたことはない」



 ■継承が消えるのが怖い

 永松 初馬氏 =山口県原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」理事長。九一年、六十六歳

 「被爆者にとって恐ろしいのは、老齢化で被爆事実を語る人が減っていくこと。継承がなくなり、人々の意識の中から原爆が消えていくこと。これが一番こわい」

 人々の記憶の風化への危機感を七五年、中国新聞の取材で語った。

 原爆の非人間性への怒りが被爆者援護と原水禁運動へと駆り立て、山口県被団協の結成や「ゆだ苑」の建設に尽力した。



 ■体験が閉じ込められる

 日詰 忍氏 =広島県被団協理事。九四年、九十一歳

 「原爆の恐ろしさはあまり知らされておらず、十年たっても原爆で死ぬ人があることなど、まったく初耳のようでした」

 五五年、英国や当時の西ドイツで被爆証言し、帰国後に中国新聞社を訪れて語った。

 「被爆者援護法制定促進行脚団」の一員として七〇年、北海道などを巡り、この年の原水禁大会でこう訴えた。

 「被爆体験は広島、長崎に閉じ込められようとしている。東北、北海道を歩いて私はそう感じ、被爆体験を話すことができて本当に良かった」

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