2001.7.20
●後ろ髪引かれる思い あの日のことで、忘れられん光景がある。妻と二人の子供が心配で、廿日市の勤め先から、家のある福島町(現・広島市西区)に急いで向かった。いくら捜しても見つからない。あちこち捜し回っているとき、山手川(現・太田川放水路)の岸にある湿地帯で、黒焦げの女学生に声を掛けられた。周囲には、沼地の中で手を天に突き上げ、既に息絶えた人たちの姿もあった。
その女学生は、雑草の中に横たわっていた。「おじさん、私は岩国から来ています。お父さんやお母さんが私の帰りを心配して待っているんです。助けてください」。 妻は身重。二人の子供は四歳と二歳だった。自宅は半壊状態だったが、郊外に逃げていて無事だった 後ろ髪を引かれる思いだった。なぜあの時、たとえ私の背中で息を引き取ったとしても一歩でも二歩でも岩国に連れて行ってあげなかったのか。五十年以上経つが、今だに忘れん。なぜ、その子の願いを聞いてあげなんだんだろうか? 今でも責められるんです。顔が焼かれ、髪が縮れ、眼だけが無事で、必死に助けを求めていた女学生の姿を。墓場まで持っていくしかないんでしょう。 病院勤めを辞めて間もない一九八一年、被爆体験を語り始めた。女学生のエピソードを盛り込んだ紙芝居「天に焼かれる」を作り修学旅行生に話した。後にアニメ映画にもなった ●犠牲者の無念を形に 三十年近く前、福島地区の原爆慰霊碑をつくることになった。夢を果たせぬまま亡くなった人の無念の思いを形にしたい、と考えたからだ。町内を回ったとき、「兵隊に行って死んだ人も一緒にしたら」と言う人がおった。 でも、被爆者の慰霊碑には、二度と繰り返してはならんとの思いが込められている。いわば人類の生存がかかっている。ほかのものと一緒にしたんじゃ、意味が薄れてしまう。そう説明した。 原爆犠牲者慰霊碑は一九七六年七月に除幕された。石碑には『天を抱くがごとく両手をさしのべし死体のなかにまだ生きるあり』と記された 被爆者は、核兵器がなくなる日を願いながら、次々亡くなっている。何年か後には、いなくなってしまう。急いで、核兵器廃絶の思いを次の世代に引き継がんといけん。 (六三年の)原水禁大会分裂を受け、広島県被団協も割れた。「目的は同じ。意見の違いは棚上げし、一緒に行動しよう」と訴えたが、だめじゃった。運動が分裂して、力はそがれてしまった。非常にまずかった。みんなが団結しないと、大きな力にはなれない。そう呼び掛けたい。 |