2001.7.22
●援護を求め日本へ 日本と韓国の被爆者の待遇が、どうしてこんなに違うんですか。だれも納得いくことを話してくれん。差別というしかないでしょう。韓国人として被爆したのなら別ですが、私はあの時、日本人でした。青松という名の日本人。治療に広島を訪れるのも、日本人の被爆者と同じように援護を受けたいからです。被爆者としての権利を探しに来とるんです。
六歳(一九三二年)の時、先に広島に来ていた父を追い、現在の韓国陜川郡から一家で移り住んだ。爆心地から約二・五キロの南区皆実町の運送会社で被爆。現在、肝臓と腎(じん)臓を患い、治療のため今年五月から、広島県西部の病院に入院している 日本が戦争に負けた後、「朝鮮人は皆殺しにされる」といううわさが広がった。わしも直接聞いた。それで、その年の十二月、おんぼろの木造船で、被爆して傷ついた兄の家族を残して宇品から出た。 実は、私も女房も帰りたくなかった。仕事のあてもなかったし、言葉も話せんかった。祖国へ帰るのに恐怖すら感じとった。おかしいでしょ。原爆におうても広島を離れたくなかったなんて。日本人の同級生が「一緒に暮らそう」って引き止めてくれた。けれど、帰国する両親をほっとくわけにはいかんかった。 陜川では苦労、苦労でした。本当に食い物がなかった。農作業もつろうて。田舎暮らしが我慢できず、四七年に女房と釜山に逃げた。父は何も言わず、許してくれた。 朝鮮戦争(五〇〜五三年)が始まり、五〇年九月、米陸軍の歩兵師団に配属された 戦争で死ぬ覚悟はできていた。昨日死んだやつは幸せだって言い合い、日本を恨みました。日本の植民地支配がなかったら、朝鮮戦争はなかっただろうと思っています。 古里に帰ったら、だれがどうなったか分からんようになっていた。集落という集落は焼けていた。陜川の被爆者もだいぶ死んだでしょうね。 日韓両政府による渡日治療で八三年、三十八年ぶりに広島を訪れた。その時、日本の被爆者に対して原爆医療法、被爆者特別措置法が整備されていることを知った 兄と再会できたし、あの時はうれしかった。でも、日本の被爆者の現状を聞いて腹が立ってね。あんなに援護してもらっているとは知らんかった。食うのに精いっぱいでそんなことに気が回らなかったから。 ●広島への思い複雑 原爆におうたのは、貧乏から逃れるため好んで広島に来たから、運が悪かったと思うて生きてきた。その後、同じ被爆者でありながら差別され、放置されてきたことに怒りを覚えるわけです。 青年時代を過ごした第二の古里だから、広島には愛着があります。今でも好きですよ。でも、わしらに日本は何もしてくれん。よう説明できん、複雑な思いです。 |