被爆で大けが 手記が導き恩人と再会/広島の寺前さん
'00/8/5
一編の手記が、被爆直後の混乱の中で一瞬だけ出会った女子生徒 と元陸軍少尉を半世紀後、再び引き合わせた。大けがを負いながら 一命を取り留めた少女は、広島市安佐南区高取南一丁目の主婦寺前 妙子さん(70)。とっさの処置で寺前さんを助けたのは、千葉県船橋 市松が丘一丁目の無職葛西充男さん(73)。二人は平和の尊さを心に 刻み、互いの無事を喜びあう。
国の委託で国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に収める被爆手記 を集めている広島市に二年前、葛西さんから手紙が届いた。「図書 館で読んだ手記の筆者、寺前妙子さんを捜してほしい」
あの日。葛西さんは比治山(南区)近くの通信隊にいた。京橋川 近くで救援活動をしていた時に出会ったのが寺前さんだった。
「女の先生に抱きかかえられ、川から上がってきた。顔は血だら けだった」と葛西さん。周囲に多くのけが人がいたが、先生に「こ の生徒を助けてやってください」と懇願され、設備の整った救護所 に行くトラックに乗せた。
とっさに「この生徒の治療を頼みます」と走り書きしたメモを生 徒のポケットに入れた。名札にあった「中○妙子」が脳裏に焼きつ いた。
その女子生徒の寺前(旧姓・中前)さんは当時、進徳高等女学校 (現・進徳女子高校)の三年生。爆心地から五百五十メートルの中 区中町にあった広島中央電話局で被爆、捜しに来た担任の脇田千代 子先生と逃げる。火に追われ京橋川を泳いで渡るころには意識はな く、寺前さんは「あの時、先生がいらっしゃらなければ…」。
以来、何度も振り返りながら再び火の海に戻って行った脇田先生 の消息を捜し続けた。被爆から三十三年後に分かったのが「昭和二 十年八月三十日に死亡」。たまらず手記「三十三年目の訃報(ふほ う)」を書いた。
葛西さんが船橋市内の図書館で偶然、手にしたのがその手記の載 った本だった。姓は違ったが、書かれた状況と「妙子」という名前 が記憶と一致した。
広島市の調査で寺前さんが判明。二人は手紙のやり取りをした 後、昨年二月、東京で五十四年ぶりに再会した。
原爆で左目の視力を失った寺前さんは「意識がなかった間のこと が初めて分かった。脇田先生や葛西さんら多くの人によって生かさ れていることに感謝して、一日一日を大切にしたい」。一方の葛西 さん。「できるだけ多くの人を助けたかったのだが…。悲劇は繰り 返してはならない」と話す。長女に「妙子」と名付けたのもそんな 思いからだ。
【写真説明】55年前に命を助けられた葛西さんからの手紙を読みながら当時を振り返る寺前さん (広島市安佐南区の自宅)