8・6へ思い切々「わたしの平和宣言」展始まる
'00/8/2
「生きていて、の祈りもむなしく父も母も姉までも白骨となって いた。一度に家族を失い、死に場所を求めてさまよった」「こんな 体験を子どもたちにさせてはならない」―。広島市東区馬木三丁 目、元小学校教諭河内政子さん(71)は五十五年間、胸にしまってき た思いを、同市が初めて公募した「わたしの平和宣言」につづっ た。一日、中区の原爆資料館東館で散文や詩、絵画など多様な「宣 言」四百七十九点の展示が始まった。
河内さんは原爆投下時、爆心地から二・五キロの牛田町(東区) にあった祖母方の庭にいた。市立第一高女(現・舟入高)四年で、 動員されていた銃弾工場の休業日だった。原爆のせん光を浴びて気 を失い、気が付くと全身にガラス片が刺さり、やけどした腕から皮 膚がぶら下がっていた。
自宅は爆心地から約四百メートルの塚本町(現・中区堺町)にあ った。家族が心配だったが街中は死体とがれきで通行できない。三 日後にようやく戻ると家は焼け、父友竹軍一さん=当時(49)=は玄 関の跡で、姉信子さん=同(20)=は台所で座ったまま、母マサノさ ん=同(47)=は炊事場で倒れたまま、ほとんど骨だけになってい た。
しばらくして髪は全部抜け、体中に黒い斑点(はんてん)ができ た。二カ月間は何も食べられない。親類や祖母の世話になりながら 高女を卒業。二年後、当時の校長の勧めで落合小(安佐北区)の代 用教員になった。担任した四年生の子どもたちが元気いっぱい走り 回る姿を見ていると心がいやされた。
河内さんは四百字詰め原稿用紙二枚の升目を黒インクの万年筆で きちょうめんに埋めた。半生を振り返って「人に対する思いやりや 人としての誇りの大切さが平和につながると思う」と力を込めた。
「わたしの平和宣言―21世紀へのメッセージ展」には、国内外の 七歳から九十一歳までの三百十四人が作品を寄せた。外国人も「ど のような戦争も人類が抱える問題を解決できない」(インド人男 性)、「世界中の人々が、平和を愛する広島のために手を取り合っ てほしい」(パキスタン人男性)などとしたためた。展示は三十一 日まで。
【写真説明】「両親と姉の分も生かされている気がします」。自筆の「わたしの平和宣言」の前で語る河内さん (広島市中区の原爆資料館東館)