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[備後の戦後75年]福山空襲 命ある限り語り継ぐ つらい記憶 葛藤乗り越え

 あの戦争が終わった1945年の夏から75年を迎える。備後地方では、終戦直前に福山市中心部や尾道市の因島が米軍の大規模な空襲に遭い、多くの命が奪われた。その悲惨な現実を知る人たちは、老いにあらがいながら自らの体験や思いを次世代につなごうとする。市民団体や若い世代は、記憶の継承に取り組む。その姿を追う。

 福山市野上町の森近静子さん(82)は、平和継承に取り組む市民団体「ふくやまピース・ナビ」のメンバーとして福山空襲の証言活動をしている。メンバー20人の中で空襲体験者はただ1人。年に数回、市内の学校や公民館で講話する。

 最初は、福山空襲について話すのにためらいがあった。「生きた心地がしなかった当時の体験と向き合い、言葉にするのはつらかった」。しかし、活動を続けるうち、参加者から「もう体験を話せる人がほとんどいない。しっかり教えてほしい」と請われることが増えた。伝える意義を強く感じるようになった。

 当時は霞国民学校(現霞小)の2年だった。空襲の記憶は、脳裏に鮮明に焼き付いている。

 45年8月8日夜、母に揺り起こされ、枕元の頭巾を取って自宅裏の防空壕(ごう)に駆け込んだ。家族が退避したのを確認した父が集会所に向かった直後、血走った表情で戻ってきた。その瞬間、耳を引き裂くような響きで防空壕が揺れた。焼夷(しょうい)弾が落ち、「家族みな死ぬんだ」。その時の衝撃が脳裏から離れない。

 翌朝、姉と学校を見に行くと丸焼けだった。道三川の橋の上にびしょびしょの布団が敷かれ、顔や髪に泥が付いた若い女性の遺体が寝かされていた。手を合わせ、その場を離れた。

 昨年末、福山工業高(福山市野上町)で生徒を前に話した。真剣に聴く生徒のまなざしに、心を動かされたという。生徒からのお礼の手紙を受け取り、「生きている限り、伝える必要がある」と実感した。

 ことしは福山市丸之内の備後遺族会館で8月2日、体験を語る。「まだ動けるうちは伝え続けたい」と考える一方で、体力の衰えを感じてもいる。「いつ話せなくなるか分からない。一回一回の講演に全力で取り組みたい」

 福山市津之郷町、多田三千男さん(84)は空襲の夜、焼夷弾を落とした数十の米軍機が山の方へ飛び去るのを見た。機体は炎に照らされ、赤く光っていた。当時は津之郷国民学校(現津之郷小)4年だった。福山城が崩れ落ち、「子どもながらに失望し、腹立たしかった」。2日後の8月10日、兄に連れられて入った市街地は焼け野原だった。

 終戦後、ジープに乗った進駐軍の兵士に頻繁に手を振り、キャンディーをもらった。戦時中の学校では「鬼畜」と習ったが、接してみると優しかった。それがきっかけで、高校の英語教諭になった。外国人と交わり、対話する大切さを実感した。

 福山空襲を伝えようと、2009年に絵本、15年に証言集を発刊し市内の市立小中高や公民館に配った。昨年は、津之郷小で児童に体験を語り掛けた。ことしは新型コロナウイルスの影響で講演の機会はないが、「75年前と同じ空襲が自分の身に起きることを想像してほしい。足元で起きた出来事を、教育現場でもっと教える必要がある」と願う。(湯浅梨奈)

福山空襲
 1945年8月8日午後10時25分ごろ、米軍のB29爆撃機91機が福山市上空に飛来し、約1時間で計556トンの焼夷弾を落とした。355人が亡くなり、旧市街地の約80%、1万179戸を焼失した。陸軍歩兵第41連隊の施設や帝国染料製造(現日本化薬)の工場などが目標になったとされる。

(2020年8月1日朝刊掲載)

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