継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第3部 賀茂台地の記憶 <5> 軍用施設
20年7月28日
弾薬庫に奪われた古里 加害の歴史「教材に」
「許可なき立入は日本国法令に依(よ)り処罰される」。物々しい看板がフェンスに掲げられている米軍川上弾薬庫(東広島市八本松町宗吉)。JR八本松駅のすぐ北にあるこの施設は、かつて旧日本軍の軍事施設が集積していた八本松地域の面影を今に伝えている。
旧海軍の弾薬庫だった敷地は戦後、連合国軍の接収を経て米軍が使い始めた。面積は広島大東広島キャンパス(同市)とほぼ同じ約2・6平方キロ。在日米軍秋月弾薬廠(しょう)(司令部・呉市)を構成する施設の一つで、貯蔵規模は極東最大規模とされる。
一家で立ち退き
「弾薬庫ができる前は集落で、友人も住んどった。川では魚を捕まえて遊んだんよ」。手書きの地図を眺めて懐かしむのは、施設のそばで暮らす福原盛夫さん(93)。敷地内にあった自宅で生まれ育った。戦時色が濃くなった1940年、中学生だった時に弾薬庫建設の話が持ち上がり、一家で立ち退きを強いられた。
福原さんは海軍の特別幹部練習生として神奈川県の学校で学び、終戦で帰郷。同じころに弾薬庫は接収され、「土地が戻ってくるかと思ったら、今度は米軍が弾薬を持ってきた」。遊休状態が一時続き、ベトナム戦争開始時に米軍が運用を再開。住民による払い下げ運動も起こったが、土地は戻ってこなかった。
「生きている間にもう一度見たい」という元住民の声を受け、福原さんが行政に掛け合って99年に弾薬庫敷地内の見学会を開いた。約60年ぶりに訪れたフェンスの中。当時と同じように川が流れていたのが印象に残る。その後、「古里」を訪れる機会は一度もない。
調査阻む鉄条網
同駅周辺では現在、広島大大学院で地理学を専攻する原田歩さん(23)が歴史を掘り起こしている。「身近な遺構を通して、子どもたちに戦争への想像力を身に付けてほしい」と思うからだ。ただ、弾薬庫内の調査は鉄条網に阻まれている。
そこで目を付けたのが、同駅から東に1・5キロの一帯にあった広島陸軍兵器補給廠八本松分廠。川上弾薬庫と同様に弾薬などの兵器を保管した施設とされているが、戦後の開発で住宅地になり、規模などの詳細はあまり分かっていない。
原田さんは「『被害』や『悲劇』を象徴する戦争遺構は保存の重要性が叫ばれている。一方で『加害』と結び付く遺構は埋もれがちだ」と話す。八本松分廠の実態を解き明かすことは、各地で戦争遺構の調査を促すことにもつながると考える。「戦争の歴史を若い世代に引き継ぐには、遺構を『地域の教材』にするのが一番だ」と考えている。(堅次亮平)=第3部おわり
(2020年7月28日朝刊掲載)
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