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連載・特集

平和で奏でる明子さんのピアノ 第1部 よみがえった音色 <1> 発見

 米国から海を渡り、広島の原爆で傷つき、半世紀を経て再び音色がよみがえった。数奇な運命をたどった「明子さんのピアノ」は、19歳で被爆死した女子学生河本明子さんの遺品だ。7月から平和記念公園内の被爆建物レストハウスで展示されることになった。被爆から75年。その音色はピアニストたちの心を捉え、次世代への継承の思いを奏で続ける。まずは、失われる寸前だったピアノが「発見」されるまでの物語をたどりたい。(西村文)

惨劇語る ガラス片の痕

 明子さんは1926年5月25日、米ロサンゼルスで広島県出身の両親の元、長子として誕生した。後に運命を共にする米国製のアップライト(縦型)ピアノはすでに生後7カ月の写真に見える。日本が国際連盟を脱退し戦争への道をひた走りだした33年、一家はピアノとともに広島に帰郷した。

被爆翌日に死去

 明子さんがピアノの練習に励んだ家は、三滝町(現広島市西区)の高台にあった。木造の日本家屋は原爆の爆風で客間の窓ガラスが割れたが、無事だった。明子さんは現在の中区八丁堀周辺で被爆し、この家まで歩き着いたが翌日に亡くなった。両親は戦後も住み続け、85年に横浜市へ転居した後は空き家となった。

 現在、「明子さんのピアノ」を所有しているグループの代表、二口とみゑさん(70)=佐伯区=は80年代に晩年の明子さんの両親と近所付き合いをしていた。二口さんが娘を連れて「おばあちゃん、こんにちは」と勝手口から入ると、河本シヅ子さん(2005年に103歳で死去)はいつも笑顔で迎えてくれた。3時のおやつは「米国滞在時によく作った」という、焼きたてのアップルパイやスコーン。歓談の輪の傍らで、夫の源吉さん(1989年に100歳で死去)は静かに読書を楽しんだ。

 当時、河本さん夫妻は明子さんについては言葉少なだったという。夫妻は97歳と84歳の時に横浜市の次男、山本正隆さん(2016年に81歳で死去)の元に転居する。その後も手紙などで交流を続けた二口さん。後年、取り壊し寸前の河本家で源吉さんの膨大な日記を見つけ、まな娘に注いだ愛情と悲しみの深さを知ることとなる。

 02年、空き家に残っていたピアノを「発見」したのは、山本さんの広島大生時代の山岳部仲間で元教員の森下弘さん(89)=佐伯区=だった。片付けのために山本さんが来ていた河本家を訪ね、何げなく客間にあった古びたピアノの鍵盤に触れた。「どーんと低い音が鳴って。当時は長年放置されていたので美しい響きではなかったけれど、親しみを感じたねえ」

 山本さんは「姉の大切な遺品だが、引き取り手がないので、実家と一緒に処分することになりそう」と語ったという。ピアノには側面に爆風で割れたガラスが刺さった痕があった。被爆者として「ワールド・フレンドシップ・センター」(西区)の理事長を務めるなど長く平和活動を続けてきた森下さん。「ここまで生き残ったピアノ。何とか残したい」という思いに駆られた。自宅のピアノの手入れを頼んでいた調律師の坂井原浩さん(56)=安佐北区=に話した。

コンサート開催

 05年8月3日、坂井原さんの手で修復されたピアノは、60年ぶりに美しい音色を取り戻した。中区のホールで約550人を集めたコンサートを主催したのは、河本さん夫妻の思いを引き継ぐ決意をした二口さん。坂井原さんが保管していたピアノを、代表を務める「HOPEプロジェクト」で譲り受けた。

 プロの演奏家と一緒に山本さんの孫娘、黎(れい)さん(当時10歳)も出演。モーツァルトの「きらきら星変奏曲」を軽やかに響かせた。客席には、明子さんの姿を浮かべながら耳を傾ける森下さんの姿もあった。

 人々の思いが積み重なり実現したコンサートは10年後、世界的なピアニストのマルタ・アルゲリッチさんとの縁をたぐり寄せることとなる。

(2020年4月21日朝刊掲載)

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