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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現 本通り <1> 理髪店主のアルバム

全滅一家 写真が語る

今に伝える2000枚

 東西に走る本通り商店街(広島市中区)を、衣料品店「ビームス広島」前から南に折れた筋。鈴木恒昭さん(88)=広島県府中町=はそこに立つと、75年前まで西側の並びにあった理髪店「鈴木美髪院」で暮らしていた6人家族への思いで胸がいっぱいになる。「本当に仲の良い家族でした」

 美髪院は叔父の鈴木六郎さんが経営していた。恒昭さん自身は約2キロ離れた広島駅の東側に住んでいたが、店から近い袋町国民学校(現袋町小)に通い、下校時によく立ち寄った。家族同然だった。2学年下のいとこ英昭さんたちと店の前の道に絵を描いたり、相撲をしたりして遊んだ。

成長記録も記す

 写真が好きな六郎さんは「子どもや動物をかわいがるやさしい人」。店の前で遊ぶ子どもによくカメラを向け、笑顔を収めた。アルバムには成長の記録も記した。「初めて立ち上(あが)つた」「小学一年生になつた」。長男の英昭さんたちが川でエビをすくう姿には「僕の子供時代ソツクリだ」とも。

 「あの日」の前日も、袋町国民学校6年だった英昭さんは川でエビを捕って遊んだ。いつものように、広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高、現南区)へ進学し2年生だった恒昭さんも一緒。「ほいじゃあの(それじゃあね)」。また、遊ぶはずだった。

 翌朝、英昭さんは袋町国民学校の校舎内で被爆。同じく校内にいて大やけどを負った3年生の妹、公子さんを背負い救護所に逃げた。「連れに戻って来る。待っとって」。助けを求めに行こうとする兄に、妹は苦しい息で「お兄ちゃん、カタキとってね」と言ったという。公子さんのその後の行方は、分からない。

 英昭さんは親戚に出会えたものの、高熱や出血に苦しみ1週間ほどで息を引き取った。六郎さん=当時(43)=は収容先で死去。次男護さん=同(3)=と次女昭子さん=同(1)=は、店の焼け跡で骨になっていた。妻フジエさん=同(33)=は、重傷を負いながらも親類の家にたどりついた。だが夫と子ども4人が誰も助からなかったらしいと知らされると、井戸に身を投げた。

 約2千枚を収録する10冊以上のアルバムが、全滅した一家の生きた証しとして残った。大切にしていたからか、被爆前に市中心部から多少離れた恒昭さんの家に移していたとみられる。

反響呼んだ展示

 「ろうそくを吹き消すように消えてしまった」―。自宅にいて助かった恒昭さんは、被爆60年を前に筆を執り、一家全滅に関して絵と手記にした。それが被爆者の「原爆の絵」として原爆資料館(中区)に所蔵されたことをきっかけに、恒昭さんの手元で眠る写真の存在にも光が当たった。

 人形遊びをする英昭さんと公子さん、手をつなぐ家族…。命が存在した記録すら原爆に消されることにあらがうかのように、残ったアルバム。同館は2014年に恒昭さんから画像データの提供を受け、一部を紹介した企画展は大きな反響を呼んだ。

 担当した高橋佳代学芸員は「原爆に奪われた『生』を伝える大切さ」を実感した。それは、美髪院があった筋を行き交う若者たちに向けた恒昭さんの思いと重なる。「ここで六郎叔父さん一家が生きていたと知ってほしい」(水川恭輔)

(2020年1月3日朝刊掲載)

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