作者の村山さん「記憶を後世に」 8・6平和宣言に短歌引用
19年8月2日
広島市の松井一実市長が6日の平和記念式典で読み上げる平和宣言に、被爆者の村山季美枝さん(79)=東京都文京区=の短歌が盛り込まれる。被爆して血だらけになった妹を抱く母を詠んだ作品で、村山さんは「むごたらしい記憶を後世に引き継がなければならない」と強く願っている。
引用されるのは「おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに妹抱(いだ)きて母は阿修羅に」との一首。市から連絡を受けた村山さんは「私なりの短歌という方法で、平和への思いを伝えたいと思っていた」と静かに喜んだ。
5歳の時、爆心地から約2・3キロの南観音町(現西区)にあった自宅の玄関先で被爆し、落ちてきた瓦で左腕にけがを負った。妹は当時3歳。爆風で飛んできたガラス片が頭や腰などに刺さる大けがを負った。母は妹を抱え、避難所へ走った。「髪を振り乱して必死の形相だった。尋常ではない雰囲気に何も言えず、後ろをただ追い掛けた」
戦後は大学の薬学部に進み、生化学を専攻。研究者として順天堂大大学院の准教授まで務めた。短歌を始めたのは在職中の50代になってから。知人に勧められた短歌雑誌「潮音」を読み「断片的な言葉でも人の心に切り込むことができる」と、のめり込んだ。
平和宣言の一首を詠んだのは1995年。一緒に被爆した姉は自己免疫疾患で体調を崩し、自らも白血球の数が減る症状に苦しんでいた。原爆の影響が頭をよぎり、核兵器のない世の中を願い「一九四五年八月六日」との題で20首を詠んだ。「どぶ川に人人人が流れゆく言葉にならぬ言葉を発して」「血しぶきの染みしタンスの裏側は引越すたびに胸を刺したる」。作品は生々しい描写が並ぶ。
現在は文京区原爆被害者友の会の会長を務め、年数回の証言活動も続けている。各国の首脳同士が自国の利益ばかりを主張して緊張を高めている状況が気掛かりだ。「本当にたまらない気持ちになる。また、戦争が始まるのではないかと。あんな体験は二度としたくない」。ともに暮らす妹の奈津江さん(77)とうなずき合った。(永山啓一)
(2019年8月2日朝刊掲載)
引用されるのは「おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに妹抱(いだ)きて母は阿修羅に」との一首。市から連絡を受けた村山さんは「私なりの短歌という方法で、平和への思いを伝えたいと思っていた」と静かに喜んだ。
5歳の時、爆心地から約2・3キロの南観音町(現西区)にあった自宅の玄関先で被爆し、落ちてきた瓦で左腕にけがを負った。妹は当時3歳。爆風で飛んできたガラス片が頭や腰などに刺さる大けがを負った。母は妹を抱え、避難所へ走った。「髪を振り乱して必死の形相だった。尋常ではない雰囲気に何も言えず、後ろをただ追い掛けた」
戦後は大学の薬学部に進み、生化学を専攻。研究者として順天堂大大学院の准教授まで務めた。短歌を始めたのは在職中の50代になってから。知人に勧められた短歌雑誌「潮音」を読み「断片的な言葉でも人の心に切り込むことができる」と、のめり込んだ。
平和宣言の一首を詠んだのは1995年。一緒に被爆した姉は自己免疫疾患で体調を崩し、自らも白血球の数が減る症状に苦しんでいた。原爆の影響が頭をよぎり、核兵器のない世の中を願い「一九四五年八月六日」との題で20首を詠んだ。「どぶ川に人人人が流れゆく言葉にならぬ言葉を発して」「血しぶきの染みしタンスの裏側は引越すたびに胸を刺したる」。作品は生々しい描写が並ぶ。
現在は文京区原爆被害者友の会の会長を務め、年数回の証言活動も続けている。各国の首脳同士が自国の利益ばかりを主張して緊張を高めている状況が気掛かりだ。「本当にたまらない気持ちになる。また、戦争が始まるのではないかと。あんな体験は二度としたくない」。ともに暮らす妹の奈津江さん(77)とうなずき合った。(永山啓一)
(2019年8月2日朝刊掲載)