丸山真男氏 被爆の肉声 故林氏69年インタビュー録音現存
13年3月4日
戦後日本を代表する政治思想史家、丸山真男氏(1914~96年)が被爆体験を詳しく語った肉声記録が現存していた。中国新聞記者だった林立雄氏(昨年12月に79歳で死去)が69年に録音し、保存していた。丸山氏自らは著作で広島での体験にほとんど触れていない。原爆資料館は「貴重な記録」と、遺族の協力を得て保存・活用する方針である。(編集委員・西本雅実)
丸山氏は召集で広島市宇品町(現南区)にあった陸軍船舶司令部に配属され、45年8月6日朝は司令部前の広場にいた。爆心地から約4・6キロだった。
情報班員で1等兵だった丸山氏は翌7日、トルーマン米大統領による「原子爆弾投下」のラジオ声明を傍受、9日には、廃虚と化した市中心街を報道班長や写真班員と歩いた。
インタビュー録音は、東大教授だった丸山氏が肝炎のため入院していた都内の病院で69年8月3日、約2時間行われた。証言の一部は同月5、6日付中国新聞夕刊で「24年目に語る被爆体験」の見出しで掲載された。
録音の中で、「今日に至っても新たに原爆症患者が、なお生まれつつあるという現実を、一体、どう説明するか。広島は毎日起こりつつある現実で、新しくわれわれに問題を突き付けている」と語っていた。
林氏は「録音テープが、丸山さんの戦争体験、その中でも原爆体験に視角を当てる際に役に立つ機会があるかもしれない」と全て書き起こして98年、「丸山眞男と広島―政治思想史家の原爆体験」との論考に収め、広島大平和科学研究センターの「IPSHU研究報告シリーズ25」に載せた。2007年には、「丸山眞男手帖の会」(東京)を通じてCD化していた。
録音のことを知った原爆資料館の問い合わせに、都内に住む林氏の長女が廿日市市の郷里宅で録音記録の所在を確認した。
「丸山眞男手帖の会」川口重雄代表(56)の話
丸山さんは生前、私たちとの座談でも原爆体験は詳しく語ろうとしなかった。なぜ、自分は生き残ったのかという思いがためらわせたのかもしれない。一方、残しておきたい気持ちから林さんの取材に向き合ったのだろう。今の福島の状況につながる被ばくをめぐる問い掛けも刻まれた貴重な音声だ。
戦後の平和・市民運動にも大きな力を与えた政治思想史家、丸山真男氏は1945年8月6日、広島で被爆した。最期まで被爆者健康手帳を申請せず96年に82歳で亡くなった。丸山氏が著作でも触れることのなかった体験とヒロシマをめぐる考えを、林立雄氏が中国新聞記者だった69年に取材した録音を基に抜粋して再録する。(編集委員・西本雅実)
―当時の所属は、暁部隊(広島市南区宇品海岸にあった陸軍船舶司令部)ですね。
参謀の訓話を聞いていたところ、突然目の前が、くらむほどの閃(せん)光(こう)がしました。ピカドンとは、本当によくいったものですね。8日にはピカドン、ピカドンと言っていました。
―話を戻して、ピカッときた後は、どうなったのでしょう。
少したって、壕(ごう)から、はい上がってみた。そこで初めて、きのこ雲を見たわけですね。話にならないほど巨大な、それがゆっくりゆっくり立ちのぼっているわけですね。
そのころから市民が流れ込んできました。15分後ぐらいじゃあないですか。着物は破れて、放心したような格好で三々五々入って来ました。海辺までずっと広場なんですけれど、ここがいっぱいになったのです。
悲惨な、広場がいっぱい埋まった光景を見たのが(8月6日の)最後の記憶です。
―次の日は、どうなりましたか。
救護および死体収容のため、兵隊は全部出動しろ、と下ったわけです。本来なら行くはずなんですけれども、情報班長が「留守で残っていろ」と。みんな出たものですから、私は短波(ラジオ)をいじっておったのです。
全く偶然なんです。トルーマン(米大統領)の声が入ってきて「原子爆弾を投下した」ということで、名前だけは聞いていたけれども、僕は何も実態は知らないんですよ。
とりあえず、原子爆弾だという放送があったことをメモに書いて、参謀室に持っていった。参謀は「そうかな」と言っていましたけれども、ぴんとこないのですね。
9日ですね。私が市内を歩いたのは。
われわれは勝手に出られないけれど(報道班長の)将校にくっついて行った。情報班は私だけで。写真を撮る人が一緒でしたね。
道々すさまじい光景を見たわけですね。広島の目抜き通りは知っていたが、もう全然分からない。泉邸(中区の縮景園)、お城の周りも歩きました。
あのどうも数え切れない死体。船舶司令部前の広場に横たわった何百という人のうなり声が、今でも耳に聞こえるようです。
―被爆体験が、思想形成に意味あるものになっていますか。
もう無理に意味をでっちあげてもしようがないことで、自分の中にずーっと、こう発酵させていく。たまっていくものを発酵させる以外、本当のものは出てきませんからね。
―そういった機会はおありですか。
やはり放射能の問題。そういうことを考えるようになったのは、(54年の米水爆実験による)ビキニの問題以後。原爆症も幼稚ながら実際の観察に基づいて分かっていましたからね。小さなやけどにすぎないような傷を負っていた人が、僕が復員しないうちに死んだりした。
―まだ、広島については、分からないことが多い…。
これまで語られたことは、実際に起こったことの何十万分の一ほど。それを一人でも多くの人間、ごくささいな路傍の石の体験でも合成していかないと、まだまだほんとの断片にすぎないんじゃないかという感じがします。僕は路傍の石にすぎないんだけれども、そういう意味で、お話ししたい気になった。
―広島の意味を聞かせてください。
戦争の惨禍の一ページではないということですよ。新たに原爆症患者が、なお生まれつつある、長期患者あるいは2世の被爆者が白血病で死んでいるという現実を一体、どう説明するか。あまりに生々しい現実が、いわば、毎日原爆が落ちているんじゃないか。だから、広島は毎日起こりつつある現実で、毎日新しくわれわれに問題を突き付けている。
―被爆者健康手帳をお持ちですか。
申請していないんです。私は広島で生活していた人間というより、至近距離にいた傍観者なんですから。
丸山真男氏
1914年、大阪市生まれ。母校の東京帝大助教授だった45年3月再び召集され、陸軍船舶司令部へ配属された。被爆後の46年、「超国家主義の論理と心理」を雑誌「世界」に発表して以来、政治思想史研究にとどまらず、戦後思想に大きな影響を与えた。主な著書に「現代政治の思想と行動」「戦中と戦後の間」など。東京大名誉教授だった77年、講演のため32年ぶりに広島を訪れた。それが最後の訪問だった。96年8月15日に死去。
(2013年3月4日朝刊掲載)
丸山氏は召集で広島市宇品町(現南区)にあった陸軍船舶司令部に配属され、45年8月6日朝は司令部前の広場にいた。爆心地から約4・6キロだった。
情報班員で1等兵だった丸山氏は翌7日、トルーマン米大統領による「原子爆弾投下」のラジオ声明を傍受、9日には、廃虚と化した市中心街を報道班長や写真班員と歩いた。
インタビュー録音は、東大教授だった丸山氏が肝炎のため入院していた都内の病院で69年8月3日、約2時間行われた。証言の一部は同月5、6日付中国新聞夕刊で「24年目に語る被爆体験」の見出しで掲載された。
録音の中で、「今日に至っても新たに原爆症患者が、なお生まれつつあるという現実を、一体、どう説明するか。広島は毎日起こりつつある現実で、新しくわれわれに問題を突き付けている」と語っていた。
林氏は「録音テープが、丸山さんの戦争体験、その中でも原爆体験に視角を当てる際に役に立つ機会があるかもしれない」と全て書き起こして98年、「丸山眞男と広島―政治思想史家の原爆体験」との論考に収め、広島大平和科学研究センターの「IPSHU研究報告シリーズ25」に載せた。2007年には、「丸山眞男手帖の会」(東京)を通じてCD化していた。
録音のことを知った原爆資料館の問い合わせに、都内に住む林氏の長女が廿日市市の郷里宅で録音記録の所在を確認した。
福島につながる貴重音声
「丸山眞男手帖の会」川口重雄代表(56)の話
丸山さんは生前、私たちとの座談でも原爆体験は詳しく語ろうとしなかった。なぜ、自分は生き残ったのかという思いがためらわせたのかもしれない。一方、残しておきたい気持ちから林さんの取材に向き合ったのだろう。今の福島の状況につながる被ばくをめぐる問い掛けも刻まれた貴重な音声だ。
放射能「毎日落ちる原爆」 丸山真男氏 インタビュー再録
戦後の平和・市民運動にも大きな力を与えた政治思想史家、丸山真男氏は1945年8月6日、広島で被爆した。最期まで被爆者健康手帳を申請せず96年に82歳で亡くなった。丸山氏が著作でも触れることのなかった体験とヒロシマをめぐる考えを、林立雄氏が中国新聞記者だった69年に取材した録音を基に抜粋して再録する。(編集委員・西本雅実)
目のくらむ閃光 すさまじい光景/短波で聞いたトルーマンの声明
―当時の所属は、暁部隊(広島市南区宇品海岸にあった陸軍船舶司令部)ですね。
参謀の訓話を聞いていたところ、突然目の前が、くらむほどの閃(せん)光(こう)がしました。ピカドンとは、本当によくいったものですね。8日にはピカドン、ピカドンと言っていました。
―話を戻して、ピカッときた後は、どうなったのでしょう。
少したって、壕(ごう)から、はい上がってみた。そこで初めて、きのこ雲を見たわけですね。話にならないほど巨大な、それがゆっくりゆっくり立ちのぼっているわけですね。
そのころから市民が流れ込んできました。15分後ぐらいじゃあないですか。着物は破れて、放心したような格好で三々五々入って来ました。海辺までずっと広場なんですけれど、ここがいっぱいになったのです。
悲惨な、広場がいっぱい埋まった光景を見たのが(8月6日の)最後の記憶です。
―次の日は、どうなりましたか。
救護および死体収容のため、兵隊は全部出動しろ、と下ったわけです。本来なら行くはずなんですけれども、情報班長が「留守で残っていろ」と。みんな出たものですから、私は短波(ラジオ)をいじっておったのです。
全く偶然なんです。トルーマン(米大統領)の声が入ってきて「原子爆弾を投下した」ということで、名前だけは聞いていたけれども、僕は何も実態は知らないんですよ。
とりあえず、原子爆弾だという放送があったことをメモに書いて、参謀室に持っていった。参謀は「そうかな」と言っていましたけれども、ぴんとこないのですね。
9日ですね。私が市内を歩いたのは。
われわれは勝手に出られないけれど(報道班長の)将校にくっついて行った。情報班は私だけで。写真を撮る人が一緒でしたね。
道々すさまじい光景を見たわけですね。広島の目抜き通りは知っていたが、もう全然分からない。泉邸(中区の縮景園)、お城の周りも歩きました。
あのどうも数え切れない死体。船舶司令部前の広場に横たわった何百という人のうなり声が、今でも耳に聞こえるようです。
―被爆体験が、思想形成に意味あるものになっていますか。
もう無理に意味をでっちあげてもしようがないことで、自分の中にずーっと、こう発酵させていく。たまっていくものを発酵させる以外、本当のものは出てきませんからね。
―そういった機会はおありですか。
やはり放射能の問題。そういうことを考えるようになったのは、(54年の米水爆実験による)ビキニの問題以後。原爆症も幼稚ながら実際の観察に基づいて分かっていましたからね。小さなやけどにすぎないような傷を負っていた人が、僕が復員しないうちに死んだりした。
―まだ、広島については、分からないことが多い…。
これまで語られたことは、実際に起こったことの何十万分の一ほど。それを一人でも多くの人間、ごくささいな路傍の石の体験でも合成していかないと、まだまだほんとの断片にすぎないんじゃないかという感じがします。僕は路傍の石にすぎないんだけれども、そういう意味で、お話ししたい気になった。
―広島の意味を聞かせてください。
戦争の惨禍の一ページではないということですよ。新たに原爆症患者が、なお生まれつつある、長期患者あるいは2世の被爆者が白血病で死んでいるという現実を一体、どう説明するか。あまりに生々しい現実が、いわば、毎日原爆が落ちているんじゃないか。だから、広島は毎日起こりつつある現実で、毎日新しくわれわれに問題を突き付けている。
―被爆者健康手帳をお持ちですか。
申請していないんです。私は広島で生活していた人間というより、至近距離にいた傍観者なんですから。
丸山真男氏
1914年、大阪市生まれ。母校の東京帝大助教授だった45年3月再び召集され、陸軍船舶司令部へ配属された。被爆後の46年、「超国家主義の論理と心理」を雑誌「世界」に発表して以来、政治思想史研究にとどまらず、戦後思想に大きな影響を与えた。主な著書に「現代政治の思想と行動」「戦中と戦後の間」など。東京大名誉教授だった77年、講演のため32年ぶりに広島を訪れた。それが最後の訪問だった。96年8月15日に死去。
(2013年3月4日朝刊掲載)