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原子雲 新たな写真 本川小 資料館と調査 展示へ

 1945年8月6日、広島県海田市町(現海田町)から撮影された原子雲の写真が、広島市中区の本川小で見つかった。原爆資料の収集と保存に尽くした山崎与三郎さん(1889~1976年)が49年入手し、同校へ寄贈していた。市の原爆資料館も所蔵していない貴重な記録だ。 (編集委員・西本雅実)

 資料館の調べでは、米軍による原爆投下の約20~30分後、爆心地の東約10キロ、同町にあった陸軍需品廠(しょう)から撮られていた。撮影者は山崎さんが残していた説明書きから軍関係者とみられる。

 当時の広島管区気象台が「広島原子爆弾被害調査報告」で記した「恰(あたか)も松茸(まつたけ)の生え出る様(よう)に、又(また)は南瓜(かぼちゃ)の上へ上へと伸び上つて行く」原子雲の様子を鮮烈にとどめている。 焼け残った鉄筋の被爆校舎を平和資料館として活用する本川小は、原爆資料館の協力を得て一連の資料を調べ直し、今春から展示も図る。

 見つかった原子雲の写真は、現在の広島県海田町からと、安佐南区から撮ったとみられる2点で原爆資料館にもない。地上から記録された原子雲の写真プリントは、これで21点の現存が確認された。

 山崎さんが表した記録や、中区に住む長男基定さん(82)によると、海田町にあった陸軍需品廠(しょう)からの写真は、千田町(中区)で古書店を営んでいた49年に元軍関係者から購入していた。この提供者について、「進駐軍のきびしいプレスコード(検閲)を恐れて語らないで去られた」と書き残している。

 安佐南区からの写真は、連合国軍総司令部(GHQ)による占領が明けた52年、朝日出版社が出した「原爆第1号ヒロシマの写真記録」でトリミングして使われた構図のものと一緒。山崎さんは編集に協力していた。

 このほか、現在の南区で被爆した空博行さん(87年死去)が46年4月に市内を回り、ガラス乾板で撮影していた24点の写真も寄贈資料の中にあった。山崎さんは52年、空さんから入手していた。

 本川小は、88年開設の平和資料館の改修を計画し、山崎さんからの資料をはじめ、被爆後の学校の動向を記した文書つづりを整理している。河野一則校長は「本校に関係するものは学校で展示し、広く一般に伝えるべきものは原爆資料館に託すなどして、貴重な資料を生かしたい」と話している。

 山崎さんは、戦前は本川小などで教師を務めた。被爆後は、47年から「千田書房」を営む傍ら原爆資料を集め始め、原爆資料館に65年、「原爆記念文庫」(5056冊)を設けるなどした。こうした活動から73年には中国文化賞を受賞した。


資料洗い直しを

被爆史を研究する宇吹暁さん(元広島女学院大教授)の話

 山崎さんは、原爆資料の収集と保存の意義を早くから唱え、実践もした。体験や記憶をめぐる証言が薄れる中、どんな資料を各団体や関係する個人が持っているのかを洗い直す作業は重要だ。それらを結び付け、発信するネットワーク化も必要になっている。

(2013年1月7日朝刊掲載)

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