Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第58号) 原爆体験記を朗読する
18年7月19日
原爆に遭(あ)った人たちから話を聞く機会は減りつつあります。その中で私たちが原爆について知る手掛(てが)かりの一つが体験記です。
最近、被爆した人たちや家族が書いた原爆体験記を朗読する取り組みが広がっています。時期や書いた人の年齢(ねんれい)、原爆が落ちた時にいた場所はそれぞれ違います。声に出して読み、伝える朗読には、五感を使って当時の光景や心の痛みを想像できる力があるのかもしれません。
中国新聞ジュニアライターは原爆体験記の朗読会に参加し、実際に読んでみました。そして、たくさんの体験記の中から、ぜひ朗読して伝えてほしいと感じたものを選びました。
<ピース・シーズ>
平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。
紙面イメージはこちら
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(しぼつしゃついとうきねんかん)(広島市中区)で、朗読ボランティアの網本えり子さん(65)の指導を受け、参加したジュニアライター4人が、事前に選んだ原爆体験記をそれぞれ朗読しました。
私は「本川地区被爆体験集」の中から、小学生の時に被爆した前田昌子さんの体験記を読みました。「外に出ると、人々のざわめきが聞こえる。朝、寺子屋に行く時の風景とまるで違(ちが)っていた」「人々の叫(さけ)び声が聞こえる。助けてくれ、水をくれ、あついよ。大勢の人、人、人でごったがえしている」
一文、一文、心を込(こ)めて読みましたが、学校の放送部で学んだ間の取り方やテンポなど、技術面を意識し過ぎてしまいました。すると網本さんから「つっかえたり声がかすれたりしてもいい。伝えようという気持ちを大事にしてください」と指摘(してき)されました。
朗読する際、演技し過ぎたり、涙(なみだ)ぐんだりしないように注意することも大切だそうです。聞く人がどう感じるかが重要なので、朗読する人は気持ちを抑(おさ)えて淡々(たんたん)と読まなければならないのです。しっかり伝えるためには「学徒動員」など戦時中の言葉の意味を理解し、地名の読み方などを調べておくことも必要です。
読むたびに感じる被爆者の痛みを思い切り表現できないのは苦しいことだ、と感じました。網本さんは「人の声でつなぐことで、聞き手と読み手の想像が広がるのが朗読の力」と強調します。原爆体験記を目で追うだけなら状況(じょうきょう)や書いた人の感情が深く理解できません。朗読を通して、読む人も聞く人も被爆者が言葉に込めた思いに近づくことができるのだと思います。(高2藤井志穂)
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、毎月「被爆体験記朗読会」があります。6月に私たちが取材した日は、3人のボランティアが原爆体験記と原爆詩を朗読していました。
始まる前、司会の片山朗(あきら)さん(82)が、「手元のテキストは開かないでください」と呼(よ)び掛(か)けました。これは、目で文字を読むのではなく、朗読を聞いて雰囲気(ふんいき)を感じてほしいからだそうです。
私も集中して朗読を聞きました。「おはよう」や「助けてくれ」など、体験記に出てくる話し言葉が、まるで自分に向けられているかのように感じました。また、ボランティアの表情やしぐさから、鮮明(せんめい)に当時の状況(じょうきょう)を思い描(えが)くこともできました。
初めて来場したという広島大1年の長沢和哉(ながさわ・かずや)さん(20)=東広島市=は「アニメやゲームから、戦争がかっこいいと感じ、憧(あこが)れる人が多い。朗読会に参加し、戦争の恐(おそ)ろしさや悲惨(ひさん)さを知るべきだ」と話していました。原爆体験記の朗読は、人を介(かい)することでより身近に、直接的に原爆の実態(じったい)を学ぶことができます。みなさんも、朗読会に足を運んでみませんか。(高1佐藤茜)
学校や地域、企業(きぎょう)などがまとめた体験記集を探し、印象に残った言葉や描写(びょうしゃ)があるもの、朗読すると当時の惨状(さんじょう)を想像できるものなど計10本を選びました。ぜひ朗読してみてください。
①「平和を祈る人たちへ」(2015年、広島女学院同窓会)
小清水光子さん=広島女学院専門学校の朝会で最後列にいて助かる
友の体は机に挟まって抜けません。友は「私の足を切り落としてください。助けてください」。死の叫び声です。
-被爆直後の描写に原爆の威力の大きさを感じました。(高3中川碧)
②「本川地区被爆体験集 命のあるかぎり平和への語り」(2007年、本川地区社会福祉協議会)
前田昌子さん=寺子屋で自習中で、壁の穴を見付けて脱出
すべては、その瞬間に失われてしまった。たぶん、何も感じなかったのは、わたしの心が失われていたのかもしれない。
-朗読するとその場の緊張感や音も伝わってきます。(高2藤井志穂)
③「紙碑 被爆老人のあかし」(1981年、広島原爆被爆者援護事業団)
竹森コムラさん=17、14歳の娘の遺骨は見つからず
あちらこちらと瓦れきの山の広島。死体処理に一生懸命になっておられる方々。交通機関もなく、唯々私達を含めて、肉親を尋ね歩く方々。
-壮絶な体験がたんたんと書かれ、光景が目の前に広がります。(高1佐藤茜)
④「広島電鉄開業80/創立50年史」(1992年)
堀本春野さん=被爆3日後の「一番電車」で車掌
今日も母を捜しに行こうとした時に、先生が「今日から市内電車が運行するので、誰か乗務して下さい」と言われました。
-同世代の人が仕事を優先していたことに驚きました。(中2大内由紀子)
⑤「全滅した広島一中一年生・父母の手記集 星は見ている」(1954年)
秋田正之さん=建物疎開に動員された長男を亡くす
「お父さん、すみません。お母さん、すみません…。はじめは四、五十人で、頑張れ頑張れといいながら帰ったが、旭橋の上で後をふり向いて見たら十四人しかいなかった」と耕三は、もうたえいりそうな声で、「みんな死にました…」
-せりふから、悲しみや虚脱感が伝わります。(高2藤井志穂)
⑥「ポプラは語り継ぐ 8・6前後の記録」(1991年、広島県立広島第二中学校二十三回生)
山本光男さん=2年生。東練兵場に動員中に顔に傷を負う
「生きていてもあの顔じゃねー」と言う隣近所の声も聞こえる。「母ちゃん、僕、もう死んでもいい」絶望して泣きながら叫ぶ。涙が傷にしみて一層痛い。母も泣きながら「たとえ傷跡が残っても死んでは駄目よ」とる。
-母が子を思う深い愛を感じます。(高1伊藤淳仁)
⑦「原子雲の下より」(1952年、峠三吉、山代巴編)
徳沢尊子さん=中学1年の時に原爆詩を書く
八月六日の朝/出て行く時に元気な声で/「たか坊 いってくるよ」/といったが/どこへ行ったのか帰っては来ない それから/七年たったが/まだ帰ってこない。
-詩の一節です。当たり前のように営んでいた日常が壊されたことがよく分かります。(中3平松帆乃香)
⑧「きのこ雲の下で 1945.8.6ヒロシマ」(2005年)
重高ヨシコさん=高女1年。東練兵場で草取り中に被爆
「おかあちゃん、おかあちゃーん」声を限りに2度絶叫すると、そこにばったりと倒れた。一瞬しーんとなって広い部屋の動きが止まった。やがて、あちこちからすすり泣きが漏れた。
-英訳も掲載し、海外の人も思いをはせることができます。(高2藤井志穂)
⑨「ピカドン だれも知らなかった子どもたちの原爆体験記」(2003年、講談社編)
佐伯武俊さん=小学6年の時に体験記を書く
ピカッと黄色に光り、あたりの物はみな黄色にみえました。僕達はなんだかおそろしくなり防空ごうの中にかけこみました。するとドカンという物すごい音がきこえてきました。
-子どもの目から見た原爆投下の瞬間が伝わってきます。(中2桂一葉)
⑩「被爆70周年慰霊の記 証」(2015年、広島市高等女学校・広島市立舟入高等学校同窓会)
林玲子さん=4歳で家族と朝食中に被爆、救出される
私たちは忘れません。語り伝えます。あの日の事を…懸命に生きた貴方たちの事を。見守っていてくださいね。21世紀を生きる、後輩たちを、母校を。広島を。そしてこの国を。
-「伝えたい」という決意に私たちも近づくことができます。(高2藤井志穂)
(2018年7月19日朝刊掲載)
【編集後記】
以前取材した被爆者の方に「あの場にいなかったあなたには、絶対分からない」と言われたことがずっと心に残っています。今回、朗読を通して「想像すること」に向き合いました。限界を感じましたが、「とうとう帰って来ない」を自分の身に置き換えて考えると、家族が外出するたびに「このまま帰って来なかったら…」と胸がざわざわするようになりました。想像することは被爆者の方に寄り添うとともに、「核兵器が嫌だ」という自分の感情を育てることだと思います。以前にも増して切実に、核兵器がなくなってほしいと思います。(藤井)
今まで、語り部さんからご自身の被爆体験を聞くという機会はあったけれど、このような朗読会に参加したのは、今回が初めてでした。「朗読中は目で文章を追うなどはせず、朗読する人の声だけに集中する」「朗読をするときは個人的な感情は込めない」というような、物語とはちがう被爆体験ならではの朗読のあり方も初めて知り、とても興味深く感じました。私たちジュニアライターとはちがう平和との向き合い方、もっと言えば原爆体験記との向き合い方はまだまだあると思います。自分の視野を広げるためにも、積極的に学んでいきたいです。(佐藤)
8月を前に、改めて小学生が被爆について書いた作文を声に出して読むと、目の前に悲惨な光景が広がります。美しい広島の街がいつまでも続くように、多くの人にこの作文を朗読してほしいと思います。(桂)
私は、この取材で、被爆体験を伝承する方法の一つに、朗読という形があることを初めて知りました。朗読のような新しい伝承方法を取り入れることで、より多くの人に原爆の記憶が受け継がれていけばよいと思いました。(平松)
今回のピース・シーズで、初めて原爆体験記の朗読会に参加しました。体験記に出てくる地名などの説明もあり、被爆時の状況が理解しやすくなるような工夫もされていました。実際に朗読を聞いてみると、黙読するときより、被爆時の緊張感が伝わってきました。被爆者の平均年齢が高くなる中、このような朗読会も大きな役割を果たすようになるのではないかと感じました。(中川)
いろんな人が書いた原爆体験記を読み、その中からお薦めの一作を選ぶ活動に参加しました。原爆体験記を書いた人や、犠牲になった人もあの日、「歴史の証人」や「被爆者」「犠牲者」ではなく、普通の学生や、家族を大切に思う今の私達と同じような人間であったということに気付かされました。(伊藤)
最近、被爆した人たちや家族が書いた原爆体験記を朗読する取り組みが広がっています。時期や書いた人の年齢(ねんれい)、原爆が落ちた時にいた場所はそれぞれ違います。声に出して読み、伝える朗読には、五感を使って当時の光景や心の痛みを想像できる力があるのかもしれません。
中国新聞ジュニアライターは原爆体験記の朗読会に参加し、実際に読んでみました。そして、たくさんの体験記の中から、ぜひ朗読して伝えてほしいと感じたものを選びました。
<ピース・シーズ>
平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。
紙面イメージはこちら
「あの日」を読み伝える
朗読ボランティアに学ぶ 気持ち抑え 思いに近づく
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(しぼつしゃついとうきねんかん)(広島市中区)で、朗読ボランティアの網本えり子さん(65)の指導を受け、参加したジュニアライター4人が、事前に選んだ原爆体験記をそれぞれ朗読しました。
私は「本川地区被爆体験集」の中から、小学生の時に被爆した前田昌子さんの体験記を読みました。「外に出ると、人々のざわめきが聞こえる。朝、寺子屋に行く時の風景とまるで違(ちが)っていた」「人々の叫(さけ)び声が聞こえる。助けてくれ、水をくれ、あついよ。大勢の人、人、人でごったがえしている」
一文、一文、心を込(こ)めて読みましたが、学校の放送部で学んだ間の取り方やテンポなど、技術面を意識し過ぎてしまいました。すると網本さんから「つっかえたり声がかすれたりしてもいい。伝えようという気持ちを大事にしてください」と指摘(してき)されました。
朗読する際、演技し過ぎたり、涙(なみだ)ぐんだりしないように注意することも大切だそうです。聞く人がどう感じるかが重要なので、朗読する人は気持ちを抑(おさ)えて淡々(たんたん)と読まなければならないのです。しっかり伝えるためには「学徒動員」など戦時中の言葉の意味を理解し、地名の読み方などを調べておくことも必要です。
読むたびに感じる被爆者の痛みを思い切り表現できないのは苦しいことだ、と感じました。網本さんは「人の声でつなぐことで、聞き手と読み手の想像が広がるのが朗読の力」と強調します。原爆体験記を目で追うだけなら状況(じょうきょう)や書いた人の感情が深く理解できません。朗読を通して、読む人も聞く人も被爆者が言葉に込めた思いに近づくことができるのだと思います。(高2藤井志穂)
祈念館での朗読会 自分に向けられた言葉のよう
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、毎月「被爆体験記朗読会」があります。6月に私たちが取材した日は、3人のボランティアが原爆体験記と原爆詩を朗読していました。
始まる前、司会の片山朗(あきら)さん(82)が、「手元のテキストは開かないでください」と呼(よ)び掛(か)けました。これは、目で文字を読むのではなく、朗読を聞いて雰囲気(ふんいき)を感じてほしいからだそうです。
私も集中して朗読を聞きました。「おはよう」や「助けてくれ」など、体験記に出てくる話し言葉が、まるで自分に向けられているかのように感じました。また、ボランティアの表情やしぐさから、鮮明(せんめい)に当時の状況(じょうきょう)を思い描(えが)くこともできました。
初めて来場したという広島大1年の長沢和哉(ながさわ・かずや)さん(20)=東広島市=は「アニメやゲームから、戦争がかっこいいと感じ、憧(あこが)れる人が多い。朗読会に参加し、戦争の恐(おそ)ろしさや悲惨(ひさん)さを知るべきだ」と話していました。原爆体験記の朗読は、人を介(かい)することでより身近に、直接的に原爆の実態(じったい)を学ぶことができます。みなさんも、朗読会に足を運んでみませんか。(高1佐藤茜)
ジュニアライターが選んだ10本
学校や地域、企業(きぎょう)などがまとめた体験記集を探し、印象に残った言葉や描写(びょうしゃ)があるもの、朗読すると当時の惨状(さんじょう)を想像できるものなど計10本を選びました。ぜひ朗読してみてください。
①「平和を祈る人たちへ」(2015年、広島女学院同窓会)
小清水光子さん=広島女学院専門学校の朝会で最後列にいて助かる
友の体は机に挟まって抜けません。友は「私の足を切り落としてください。助けてください」。死の叫び声です。
-被爆直後の描写に原爆の威力の大きさを感じました。(高3中川碧)
②「本川地区被爆体験集 命のあるかぎり平和への語り」(2007年、本川地区社会福祉協議会)
前田昌子さん=寺子屋で自習中で、壁の穴を見付けて脱出
すべては、その瞬間に失われてしまった。たぶん、何も感じなかったのは、わたしの心が失われていたのかもしれない。
-朗読するとその場の緊張感や音も伝わってきます。(高2藤井志穂)
③「紙碑 被爆老人のあかし」(1981年、広島原爆被爆者援護事業団)
竹森コムラさん=17、14歳の娘の遺骨は見つからず
あちらこちらと瓦れきの山の広島。死体処理に一生懸命になっておられる方々。交通機関もなく、唯々私達を含めて、肉親を尋ね歩く方々。
-壮絶な体験がたんたんと書かれ、光景が目の前に広がります。(高1佐藤茜)
④「広島電鉄開業80/創立50年史」(1992年)
堀本春野さん=被爆3日後の「一番電車」で車掌
今日も母を捜しに行こうとした時に、先生が「今日から市内電車が運行するので、誰か乗務して下さい」と言われました。
-同世代の人が仕事を優先していたことに驚きました。(中2大内由紀子)
⑤「全滅した広島一中一年生・父母の手記集 星は見ている」(1954年)
秋田正之さん=建物疎開に動員された長男を亡くす
「お父さん、すみません。お母さん、すみません…。はじめは四、五十人で、頑張れ頑張れといいながら帰ったが、旭橋の上で後をふり向いて見たら十四人しかいなかった」と耕三は、もうたえいりそうな声で、「みんな死にました…」
-せりふから、悲しみや虚脱感が伝わります。(高2藤井志穂)
⑥「ポプラは語り継ぐ 8・6前後の記録」(1991年、広島県立広島第二中学校二十三回生)
山本光男さん=2年生。東練兵場に動員中に顔に傷を負う
「生きていてもあの顔じゃねー」と言う隣近所の声も聞こえる。「母ちゃん、僕、もう死んでもいい」絶望して泣きながら叫ぶ。涙が傷にしみて一層痛い。母も泣きながら「たとえ傷跡が残っても死んでは駄目よ」とる。
-母が子を思う深い愛を感じます。(高1伊藤淳仁)
⑦「原子雲の下より」(1952年、峠三吉、山代巴編)
徳沢尊子さん=中学1年の時に原爆詩を書く
八月六日の朝/出て行く時に元気な声で/「たか坊 いってくるよ」/といったが/どこへ行ったのか帰っては来ない それから/七年たったが/まだ帰ってこない。
-詩の一節です。当たり前のように営んでいた日常が壊されたことがよく分かります。(中3平松帆乃香)
⑧「きのこ雲の下で 1945.8.6ヒロシマ」(2005年)
重高ヨシコさん=高女1年。東練兵場で草取り中に被爆
「おかあちゃん、おかあちゃーん」声を限りに2度絶叫すると、そこにばったりと倒れた。一瞬しーんとなって広い部屋の動きが止まった。やがて、あちこちからすすり泣きが漏れた。
-英訳も掲載し、海外の人も思いをはせることができます。(高2藤井志穂)
⑨「ピカドン だれも知らなかった子どもたちの原爆体験記」(2003年、講談社編)
佐伯武俊さん=小学6年の時に体験記を書く
ピカッと黄色に光り、あたりの物はみな黄色にみえました。僕達はなんだかおそろしくなり防空ごうの中にかけこみました。するとドカンという物すごい音がきこえてきました。
-子どもの目から見た原爆投下の瞬間が伝わってきます。(中2桂一葉)
⑩「被爆70周年慰霊の記 証」(2015年、広島市高等女学校・広島市立舟入高等学校同窓会)
林玲子さん=4歳で家族と朝食中に被爆、救出される
私たちは忘れません。語り伝えます。あの日の事を…懸命に生きた貴方たちの事を。見守っていてくださいね。21世紀を生きる、後輩たちを、母校を。広島を。そしてこの国を。
-「伝えたい」という決意に私たちも近づくことができます。(高2藤井志穂)
(2018年7月19日朝刊掲載)
【編集後記】
以前取材した被爆者の方に「あの場にいなかったあなたには、絶対分からない」と言われたことがずっと心に残っています。今回、朗読を通して「想像すること」に向き合いました。限界を感じましたが、「とうとう帰って来ない」を自分の身に置き換えて考えると、家族が外出するたびに「このまま帰って来なかったら…」と胸がざわざわするようになりました。想像することは被爆者の方に寄り添うとともに、「核兵器が嫌だ」という自分の感情を育てることだと思います。以前にも増して切実に、核兵器がなくなってほしいと思います。(藤井)
今まで、語り部さんからご自身の被爆体験を聞くという機会はあったけれど、このような朗読会に参加したのは、今回が初めてでした。「朗読中は目で文章を追うなどはせず、朗読する人の声だけに集中する」「朗読をするときは個人的な感情は込めない」というような、物語とはちがう被爆体験ならではの朗読のあり方も初めて知り、とても興味深く感じました。私たちジュニアライターとはちがう平和との向き合い方、もっと言えば原爆体験記との向き合い方はまだまだあると思います。自分の視野を広げるためにも、積極的に学んでいきたいです。(佐藤)
8月を前に、改めて小学生が被爆について書いた作文を声に出して読むと、目の前に悲惨な光景が広がります。美しい広島の街がいつまでも続くように、多くの人にこの作文を朗読してほしいと思います。(桂)
私は、この取材で、被爆体験を伝承する方法の一つに、朗読という形があることを初めて知りました。朗読のような新しい伝承方法を取り入れることで、より多くの人に原爆の記憶が受け継がれていけばよいと思いました。(平松)
今回のピース・シーズで、初めて原爆体験記の朗読会に参加しました。体験記に出てくる地名などの説明もあり、被爆時の状況が理解しやすくなるような工夫もされていました。実際に朗読を聞いてみると、黙読するときより、被爆時の緊張感が伝わってきました。被爆者の平均年齢が高くなる中、このような朗読会も大きな役割を果たすようになるのではないかと感じました。(中川)
いろんな人が書いた原爆体験記を読み、その中からお薦めの一作を選ぶ活動に参加しました。原爆体験記を書いた人や、犠牲になった人もあの日、「歴史の証人」や「被爆者」「犠牲者」ではなく、普通の学生や、家族を大切に思う今の私達と同じような人間であったということに気付かされました。(伊藤)