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社説・コラム

『今を読む』 米シカゴ大名誉教授 ノーマ・フィールド

核と人体実験 表裏一体で進展した開発

 昨年12月2日は核の歴史において重要な記念日だった―。そう言われて、ぴんとくる人はほとんどいないのではないか。75年前のこの日、シカゴ大で物理学者エンリコ・フェルミ率いるチームが、制御された核分裂の連鎖反応実験に成功した。原爆開発へ決定的な一歩を踏み出したのだ。ナチス・ドイツに先を越されまいという奮闘の成果だった。

 学内で一連の記念行事があった。特筆すべきは、ヒロシマ賞も受賞した芸術家、蔡國強氏の火薬を使ったパフォーマンスである。

 チャペルの鐘の厳かな響きに合わせ、観衆が声を弾ませカウントダウンした。実験が行われた時刻の午後3時25分に、75に達すると、爆発音とともにバースデーケーキのキャンドルのようにカラフルなきのこ雲がもくもくと空に上った。大学ホームページに掲載された公式映像では削除されているが、拍手と歓声が湧き起こった。

 大学関係者は「あの作品は、核がはらむ闇と光の双方を表現するもの」と肯定的に解釈する。一連の行事は、音楽、美術、映画上映を交えて華やかなものだったが、「いずれもビッグサイエンスの誕生を振り返る意図であり、お祝いではない」とも言われた。

 しかし、カラフルなきのこ雲とそれを見る観客の中に、核がヒロシマとナガサキ、あるいは核実験や原発事故を通して、人類にもたらした負の側面へのまなざしは、なかなか感じることができなかった。

 わずかながら救いもあった。お祭り騒ぎにあらがう試みも複数、行われたからだ。

 カラフルなきのこ雲が立ち上った直後、近くに立つ反核活動家でもあったヘンリー・ムーアの彫刻作品「核エネルギー」の周りに学生数人が集まってダイ・インを始めた。観衆が空から地上に目線を戻した時、彼らの姿が視野に入ったはずだ。きのこ雲の下で何が起きたのか。核被害者の存在を意識するように促す行為だった。

 核を巡る大学の歴史を取り上げた特別講座も開かれ、私も登壇した。そこでひもといたのは、放射性物質を使った人体実験という史実だ。

 1986年の米議会報告書は、病人、受刑者、知的障害者に対する放射性物質の注射や照射などの実験が、全米各地で行われていたことを明らかにしている。シカゴ大が60年代初頭に学生やスタッフ計102人を実験台にした事例もある。62年のネバダ核実験場での「スモールボーイ」実験で放出された放射性降下物を服用させて、体外排出までの時間を計る―などの一連の実験だ。生身の人間を「核の測定装置」に使った一例である。

 インフォームド・コンセントという考えは当時はまだなく、放射性物質の有害性も十分理解されていなかった、という反論もある。

 しかし、マリー・キュリーにさかのぼるまでもなく、原爆開発に携わったフェルミたちは頻繁に検査を受けていた。医学界では、患者にとって利益が見込めない実験はするべきでない、という認識も既に定着していた。

 議会報告書は「被験者は自発的に参加した」とするが、教授や上司に学生やスタッフが「ノー」と言えただろうか。史実と真剣に向き合い、核被害は人ごとではないと、学生・職員に感じてもらいたい。

 それが、特別講義で扱った動機である。人体実験という自分たちの問題の検証こそ、75周年にすべきことだ、と大学の学内誌に書こうとしたが阻止されたことも、私を奮起させた。関連する資料を作成して配布するなど、ささやかな抵抗を続けている。

 かつて原爆被害者は、原爆傷害調査委員会(ABCC)で治療されず、観察の対象であり続けた。科学の「進展」には実験が不可欠であり、核と人体実験は、表裏一体だ。「自国民を守るため」という核兵器は、自国民の命と体を侵食せずには開発できない。しかも、原発を含めて核の被害は、国境も越えるのだ。

 47年東京生まれ。米プリンストン大で博士号取得。シカゴ大東アジア言語文化学科長など歴任。専門は日本文学・文化研究。源氏物語や小林多喜二の研究で知られる。

(2018年4月10日朝刊掲載)

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