145点の記憶
18年4月2日
奪われた大家族の営み 皿や割れた仏像 無念さ詰まる
爆心地から470メートル。家族5人が犠牲となった自宅焼け跡で、36歳の男性は皿や茶わん、瓦、割れた仏像などを拾い集めた。一瞬で奪われたものの記憶をつなぐ品々―。晩年、原爆資料館に145点を託すまで、一つも捨てることなく手元に置いた=1995年、本田俊夫さん寄贈。(撮影・高橋洋史)
≪無言の証人・熱線直撃の品々≫
熱線の直撃を受けたのだろう。がれきや溶けたガラスがこびり付いた茶わん。重なったまま固まった皿。原爆資料館の収蔵庫に、本田俊夫さん(1998年、88歳で死去)が焼け跡から掘り出した資料が眠る。
大家族で食卓を囲み、家業に精を出した名残である。被爆当時は兄や姉とその家族、計8人で暮らし、大手町(現広島市中区)で地元特産品を扱う商店を営んでいた。夏はかき氷が人気。路面電車の中でアイスクリームも販売した。冬は洋風建築の屋上に大量につるした干し柿が、道行く人の目を引いた。
原爆で全てを失う。本田さんは広島駅にいて助かったが、自宅にいた長兄の鶴蔵さん、次姉のシゲさんら5人が犠牲に。焼け跡で遺体を見つけ、自ら弔った。そして湯飲みの破片や砕けた瓦、取っ手だけのコップに至るまで拾い集めた。
自宅跡に小さなバラックを建て、病院内の売店経営から再出発した。苦しい生活を強いられても、家を建て替えても「遺品」を手放すことはなかった。
当時2歳だった長女の石井和子さん(75)は母の美年子さん(昨年96歳で死去)と疎開していた。「当時のことを父から聞かされたことはありません。思い出したくなかったのでしょう」。被爆50年の節目に区切りを付けた。「埋もれさせるより何かの役に立ててもらえれば」と家族で話し合い、一部を手元に残して資料館に託した。
その直前、本田さん宅を訪ねた日を思い出す。入社間もない新人記者だった。段ボール4箱にずっしりと詰まった品々を見せてもらった。「何度も捨てようとしましたが、ここで亡くなった人たちの無念さを思うとできませんでした」。重い一言が今も胸に残る。(金崎由美)
(2018年4月2日朝刊掲載)