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社説・コラム

『論』 福島への無関心 風評や原発回帰 許すのか

■論説委員 田原直樹

 3・11から4日が過ぎた。11日前後には東日本大震災と福島第1原発事故による被災地の現状を盛んに取り上げたメディアもすっかり、鳴りを潜めてしまった。

 関心を持ち続けて―と被災者はテレビ特番で訴えかけていたが、来年の節目まで世の中ではあまり意識しないのかもしれない。

 7年になる今年は3・11関連の報道や出版物がこれまでに比べて少ないなと思っていた。世の中の関心の低下に、メディアに従事する一人として責任を感じる。

 東京電力の定例会見を取材、追及し続けている芸人コンビ「おしどり」マコさんも無関心を憂う。季刊誌「社会運動」に寄せた随筆で、会見に出席する記者が減り続けて、昨年11月にはとうとうテレビカメラが消えたと嘆いていた。視聴者の関心が減ったから取材が減ったんです―。マコさんはそう背景をみる。

 卵が先か鶏が先かというようだが、ともかく無関心が広がっているのは間違いない。被災地のことは十分知っているとして、関心を持たなくなる人もいるのだろう。

 先月「アップデイトふくしま~知って応援。伝えて応援。」という催しが東京であった。福島に関する情報をアップデート(更新)して支援しようという趣旨で、学者や医師、マスコミ関係者らが実情を報告。福島大のウィリアム・マクマイケル助教は、ネット空間に見られる海外発信の誤った情報を紹介していた。

 燃えさかる工場へ海上の船が放水する光景を原発事故発生時としたり、突然変異した花を被災地撮影としたり―。無関係の写真が福島に結び付けられている。ゆがんだイメージが流布、増幅され、風評や偏見が定着してしまう。

 無知や悪意に怒りを覚えるが、では、わたしたち自身はどうか。福島の現在や真の姿をどこまで理解していると言えるだろう。

 無関心でいることで風評被害を固定してしまう面もありそうだ。

 筑波大の五十嵐泰正准教授が先月刊行した「原発事故と『食』」に、「何となく悪いイメージ」の固定化―という項目があった。

 福島県で実施されているコメの全量全袋検査を、98%もの県民が知っており、安心して消費している。だが首都圏、中京圏、西日本とおおむね距離が離れるに従って検査の認知度は下がるという。

 放射能問題への関心は被災地から遠い地から低下し、現状を知るための情報のアップデートもされないのが現状だろう。その結果、福島県産品を積極的に避けはしないが、悪いイメージがうっすら残る、と述べている。

 このイメージに筆者自身、思い当たった。食品売り場で避けている中国産のことだ。今は改善していようが、過去の報道や世評が頭に残っている。同様に、福島産にも「イメージ」が無意識のうちに巣くっていないとも限らない。

 先月訪ねた原発周辺の町で住民と接することができた。初めてのホテル経営に乗り出した被災者の仲間、被災地で交流事業や稲作に打ち込む元東電社員、サケ放流に懸命な漁協職員…。もがく彼らの姿に触れたことで、無関心はもちろん、奥底にあったかもしれない「何となく悪いイメージ」を払拭(ふっしょく)できた気がしている。

 無関心には他にも看過できない弊害がある。先述のマコさんは、関心が減ると「情報公開が後退する一方」と記すが、東電や政府に「免罪符」を与えかねない。

 東京五輪誘致に際し、首相は事故を「アンダーコントロール(管理下)」と発言し、ベースロード電源として原発再稼働を進める。

 福島第1原発を視察したが、靴下の二重ばきやマスク、線量計といった軽装備である。原発内部や近くでの作業以外、防護服は不要という。放射線低減が進んで「少しずつ普通の現場に近づきつつある」と東電は説明した。

 しかし廃炉はまだまだ見通せない。また周辺の一部地域は避難指示が解除されたが、住民が戻りたくても戻れぬ現実があり、決して「普通」の地域ではない。

 節目を過ぎれば忘れてしまう。そんな社会の罪深さ、恐ろしさにも関心を持っておきたい。

(2018年3月15日朝刊掲載)

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