『言』 放射線の可視化 福島だけの問題ではなく
18年2月28日
◆映像作家 加賀谷雅道さん
東京電力福島第1原発事故から間もなく丸7年を迎える。東京の映像作家、加賀谷雅道さん(36)は事故の翌年から被災地に通い、動植物などの放射能汚染がひと目で分かる写真「放射線像」を撮り続けている。広島市で来月開く展示会を前に、見えない放射線を可視化するプロジェクトに込めた思いを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真・浜岡学)
―なぜ放射線を見えるようにしようと考えたのですか。
東日本大震災と原発事故が起きた時、フランスで写真を学んでいました。放射線に関する知識が特別あったわけではありません。ただ2カ月後に東京へ戻ると、発表されている測定値の上では間違いなく汚染されていると分かるのに、全く実感が湧かなかった。
見えないからこそ不安にもなるし、逆にないものとして忘れてしまうこともある。放射線の姿を何とか最新の技術で視覚的記録にして残せないか、日本にいる誰かがやるべきだと考えるようになりました。
―すぐに実現できましたか。
福島市などに出かけ、汚染された土壌を採取して、レントゲンフィルムに露光を繰り返したりしてみたのですが、なかなか成功しませんでした。
そんな時、東京大農学部の森敏名誉教授がオートラジオグラフィーという手法で植物に蓄積された放射性物質を撮影しているのを知りました。大学で工学を学び、卒業後に写真も学んだ私は、技術的な面でも協力できるのではと参加を申し出たのです。
―オートラジオグラフィーとはどんな手法なのでしょう。
DNA解析など研究に用いられる手法です。仕組みとしては、エックス線写真と同じ原理で放射性物質が付着したサンプルを、イメージングプレートと呼ばれる特殊な板に感光させます。すると放射性物質から発せられた放射線が感光し、汚染された部分の像が写ります。モノクロームの像は皮肉にも美しく見えます。
―何を撮影しましたか。
汚染の強かった福島県浪江町や飯舘村に残された長靴や作業用手袋といった日用品を提供してもらいました。森先生は植物を集めておられたので、私は蛇やザリガニといった動物も集めました。周辺や東日本一円も歩き、300点以上を撮影しました。
―印象に残っている物は。
たくさんありますが、例えば浪江町で2012年に拾った鳥の「羽」です。輪郭までくっきり放射線像が浮かび上がりました。大気中にまだ放射性物質が舞っている時期に飛んでいたのでしょう。先端が濃く見えるのは汚染がより強いからです。羽ばたきによる遠心力の作用で放射性物質が先の方に集まったためと考えられます。こんなふうに1枚の放射線像から、さまざまな状況を読み取ることができます。
―プロジェクトを続けて、どんなことが見えてきましたか。
事故直後の初期プルーム(放射性雲)が大きな広がりを持っていたことが、よく分かりました。横浜市内の民家から提供を受けて撮影した空気清浄機のフィルターからは、水に溶けない微細なガラス体の汚染物質を発見しました。あの時、放射性物質は関東一円に届き、室内にも流れ込んでいたのです。私の住む東京都内の雨どいにたまった土でも放射線像ができました。原発事故を福島だけの問題にしてはならないと思いました。
―横浜では福島から自主避難した中学1年の男子生徒が転入先でいじめを受け、不登校になった問題がありましたね。
もしあの時、横浜にも届いた放射性物質が目に見え、汚染の広がりがいじめる側に認識できていれば、そんなことも起こらなかったのではないかと思えてきます。だからこそ放射線を可視化する意味を感じています。
―国内外で展示を続けていますね。何を伝えますか。
核時代に生きる人類が引き起こした歴史の記録として見てもらい、放射能汚染がどういったものかを知ってほしいです。研究やメディアといった分野でも、実態に迫る方法としてぜひ、こうした可視化の手法を取り入れてほしい。私も含め一人一人があの時福島で起きたことを過去のことにせず、問い続けなくてはと思っています。
かがや・まさみち
茨城県出身。早稲田大理工学部卒。フランスで写真を学び、12年放射線像プロジェクトに着手。17年京都国際写真祭でFUJIFILM Award、オーストリアArs Electronica栄誉賞、中国連州国際写真祭で審査員特別賞を受賞。写真展は3月28日~4月5日、広島市中区の旧日本銀行広島支店。「福島と広島をつなぐ、もみのきの会」の主催。
(2018年2月28日朝刊掲載)
東京電力福島第1原発事故から間もなく丸7年を迎える。東京の映像作家、加賀谷雅道さん(36)は事故の翌年から被災地に通い、動植物などの放射能汚染がひと目で分かる写真「放射線像」を撮り続けている。広島市で来月開く展示会を前に、見えない放射線を可視化するプロジェクトに込めた思いを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真・浜岡学)
―なぜ放射線を見えるようにしようと考えたのですか。
東日本大震災と原発事故が起きた時、フランスで写真を学んでいました。放射線に関する知識が特別あったわけではありません。ただ2カ月後に東京へ戻ると、発表されている測定値の上では間違いなく汚染されていると分かるのに、全く実感が湧かなかった。
見えないからこそ不安にもなるし、逆にないものとして忘れてしまうこともある。放射線の姿を何とか最新の技術で視覚的記録にして残せないか、日本にいる誰かがやるべきだと考えるようになりました。
―すぐに実現できましたか。
福島市などに出かけ、汚染された土壌を採取して、レントゲンフィルムに露光を繰り返したりしてみたのですが、なかなか成功しませんでした。
そんな時、東京大農学部の森敏名誉教授がオートラジオグラフィーという手法で植物に蓄積された放射性物質を撮影しているのを知りました。大学で工学を学び、卒業後に写真も学んだ私は、技術的な面でも協力できるのではと参加を申し出たのです。
―オートラジオグラフィーとはどんな手法なのでしょう。
DNA解析など研究に用いられる手法です。仕組みとしては、エックス線写真と同じ原理で放射性物質が付着したサンプルを、イメージングプレートと呼ばれる特殊な板に感光させます。すると放射性物質から発せられた放射線が感光し、汚染された部分の像が写ります。モノクロームの像は皮肉にも美しく見えます。
―何を撮影しましたか。
汚染の強かった福島県浪江町や飯舘村に残された長靴や作業用手袋といった日用品を提供してもらいました。森先生は植物を集めておられたので、私は蛇やザリガニといった動物も集めました。周辺や東日本一円も歩き、300点以上を撮影しました。
―印象に残っている物は。
たくさんありますが、例えば浪江町で2012年に拾った鳥の「羽」です。輪郭までくっきり放射線像が浮かび上がりました。大気中にまだ放射性物質が舞っている時期に飛んでいたのでしょう。先端が濃く見えるのは汚染がより強いからです。羽ばたきによる遠心力の作用で放射性物質が先の方に集まったためと考えられます。こんなふうに1枚の放射線像から、さまざまな状況を読み取ることができます。
―プロジェクトを続けて、どんなことが見えてきましたか。
事故直後の初期プルーム(放射性雲)が大きな広がりを持っていたことが、よく分かりました。横浜市内の民家から提供を受けて撮影した空気清浄機のフィルターからは、水に溶けない微細なガラス体の汚染物質を発見しました。あの時、放射性物質は関東一円に届き、室内にも流れ込んでいたのです。私の住む東京都内の雨どいにたまった土でも放射線像ができました。原発事故を福島だけの問題にしてはならないと思いました。
―横浜では福島から自主避難した中学1年の男子生徒が転入先でいじめを受け、不登校になった問題がありましたね。
もしあの時、横浜にも届いた放射性物質が目に見え、汚染の広がりがいじめる側に認識できていれば、そんなことも起こらなかったのではないかと思えてきます。だからこそ放射線を可視化する意味を感じています。
―国内外で展示を続けていますね。何を伝えますか。
核時代に生きる人類が引き起こした歴史の記録として見てもらい、放射能汚染がどういったものかを知ってほしいです。研究やメディアといった分野でも、実態に迫る方法としてぜひ、こうした可視化の手法を取り入れてほしい。私も含め一人一人があの時福島で起きたことを過去のことにせず、問い続けなくてはと思っています。
かがや・まさみち
茨城県出身。早稲田大理工学部卒。フランスで写真を学び、12年放射線像プロジェクトに着手。17年京都国際写真祭でFUJIFILM Award、オーストリアArs Electronica栄誉賞、中国連州国際写真祭で審査員特別賞を受賞。写真展は3月28日~4月5日、広島市中区の旧日本銀行広島支店。「福島と広島をつなぐ、もみのきの会」の主催。
(2018年2月28日朝刊掲載)