ICANのノーベル平和賞受賞を前に サーロー節子
17年12月7日
非政府組織(NGO)の「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)へのノーベル平和賞授賞式(12月10日)を前に、受賞演説を行うカナダ・トロント市在住で広島出身の被爆者、サーロー節子さん(85)が中国新聞に思いを寄せた。
サーローさんは2007年のICAN発足時から行動を共にする。核兵器の非人道性を追及する国際会議や今年の禁止条約交渉会議で被爆体験を語り、国際世論形成に貢献した。ノルウェー・オスロで営まれる式でベアトリス・フィン事務局長とともに登壇する。
◇
広島と長崎の被爆者はもちろん、核兵器廃絶に努力するすべての人のための賞である。核兵器禁止条約がついに制定され、実現に「革新的な努力」を尽くした国際NGO(非政府組織)の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞に選ばれた。そのICANからの求めで、授賞式典に登壇する。身に余る光栄だ。
ICANは2007年、オーストラリアで誕生した。同国での英国による核実験が先住民に被害をもたらしていることに怒り、行動した反核医師らが中心だ。その年にカナダでもICANが発足したのを機に、この団体とともに歩み始めた。
最悪の非人道兵器を新たな国際法で禁止しよう、という機運の広がりは想像以上の速さだったが、各国のキャンペイナー(運動家)たちを知るほど、必然だったと実感する。行動力と知識がずばぬけているのだ。地元選出の国会議員や国連外交官など相手を問わず、若者が堂々と禁止条約の意義を説いて回る。会員制交流サイト(SNS)で世界に仲間の輪を広げる。冷戦期から反核運動を続けるベテランも存在感がある。
核軍縮義務を守る気などない米国やロシアなど核武装9カ国に対する非保有国の怒りも、とうに沸点に達していた。良心ある国々が対等なパートナーとしてNGOの声を尊重した。条約交渉会議も、一部を除きNGOに公開された。まさに、市民と熱意ある政府で民主的に作った条約だ。
被爆体験に「理論」
私たち被爆者は、愚直に体験を語ることで核兵器の非人道性を告発してきた。では、再び使われたら熱線、爆風、放射線が人間と地球にどんな被害を及ぼすのか。国際法をどう強化すべきか―。被害者に寄り添いつつ、被爆体験に「理論」を加えたのがICANだ。思い出したくない過去を語り続ける努力は、間違いでも無駄でもなかった、と確信させてくれた。
広島女学院高女(現広島女学院中高)2年だった72年前のあの日、爆心地から1・8キロの第二総軍司令部に動員され被爆した。倒壊した建物からはい出し、地獄絵図の中を逃げた。被爆死した姉と4歳のおいの遺体に兵隊さんが石油をまき「腹はまだ焼けてないぞー」「脳みそは生焼けだぞー」と声を掛けながら竹ざおで転がすのを、ぼうぜんと見届けた。その記憶が長年、私を苦しめた。
学校や集会で体験を語る前日の夜は、最大の被害者である死者を思い、涙が止まらなくなる。祈り、心を整え、証言に臨む。今年3月の条約交渉会議の初日、議場で訴えた。「この交渉は、今を生きる者と将来世代への貢献だ。同時に、広島と長崎で虐殺された数十万人の存在を感じてほしい。幾多の死を無駄にしないで」。その中に、女学院の級友ら351人もいる。
自らの反核運動を振り返ると、高校と大学のYWCA活動などを通じ、出会った師たちが原点にある。
原爆孤児の支援に身を投じる広島流川教会の谷本清牧師の姿に「私も社会の役に立とう」と志した。広島大の森滝市郎先生から学んだのは、洞察力と「グローバル」という言葉の新鮮な響き。広島女学院大の広瀬ハマコ学長から「新憲法の下、日本にも女性が活躍できる時代が来た」と留学を促され、1954年夏に渡米した。
その年の春、マーシャル諸島での米国核実験で第五福竜丸が被災していた。新聞取材を受け「広島と長崎は核実験の終わりになるべきだった」と答えた記事が掲載されると「日本へ帰れ」「真珠湾を忘れるな」と脅迫する手紙が届いた。「敵国の人間」として袋だたきにされる恐怖と孤独に苦しみながら「愛する人たちを犬死にさせることが再びあってはならない。闘い続ける」と決心した。
翌年結婚し、カナダのトロント市教委などでソーシャルワーカーとして勤めた。6年前に他界した夫ジェームズの支えで、反核運動と平和教育に力を注いだ。ICANと出会い、世界はさらに広がった。
核廃絶へ 最高の励まし
ICANへのノーベル平和賞の授与は、廃絶運動への最高の励ましだ。同時に、非人道兵器を「抑止力」として正当化し、禁止条約への参加を拒む国々への痛烈な批判でもある。核軍縮への政治的意思を欠き、いまや国際法違反の兵器に固執する保有国に、怒りばかりが募る。
私が生まれ育った日本と長年暮らすカナダに対しても、である。「唯一の被爆国としてリーダーシップを取る」とは口先だけで、日本は「核の傘」を差し出す米国に追従するばかり。愛する二つの国がこの条約に背を向けていることは、本当に悲しく、つらい。
私は命ある限り、多くの人と手を携えながら核武装国と核依存国に行動を迫り続ける覚悟だ。条約制定という「核兵器の終わりの始まり」から、さらに前へ進まなければならない。
さーろー・せつこ
1932年広島市南区生まれ。被爆後、54年に広島女学院大を卒業し米国留学。結婚してカナダに移住し、トロント大で社会福祉学の修士号取得。75年にはカナダ初の原爆展をトロント市庁舎で開き、市民団体「広島・長崎から学ぶ会」を結成。2006年、市民に与えられる最高位であるカナダ勲章を受章した。ICANと行動を共にし、国連の核兵器禁止条約交渉会議で被爆者として演説した。広島市のひろしま平和大使も務める。トロント市在住。
(2017年11月25日朝刊掲載)
サーローさんは2007年のICAN発足時から行動を共にする。核兵器の非人道性を追及する国際会議や今年の禁止条約交渉会議で被爆体験を語り、国際世論形成に貢献した。ノルウェー・オスロで営まれる式でベアトリス・フィン事務局長とともに登壇する。
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広島と長崎の被爆者はもちろん、核兵器廃絶に努力するすべての人のための賞である。核兵器禁止条約がついに制定され、実現に「革新的な努力」を尽くした国際NGO(非政府組織)の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞に選ばれた。そのICANからの求めで、授賞式典に登壇する。身に余る光栄だ。
ICANは2007年、オーストラリアで誕生した。同国での英国による核実験が先住民に被害をもたらしていることに怒り、行動した反核医師らが中心だ。その年にカナダでもICANが発足したのを機に、この団体とともに歩み始めた。
最悪の非人道兵器を新たな国際法で禁止しよう、という機運の広がりは想像以上の速さだったが、各国のキャンペイナー(運動家)たちを知るほど、必然だったと実感する。行動力と知識がずばぬけているのだ。地元選出の国会議員や国連外交官など相手を問わず、若者が堂々と禁止条約の意義を説いて回る。会員制交流サイト(SNS)で世界に仲間の輪を広げる。冷戦期から反核運動を続けるベテランも存在感がある。
核軍縮義務を守る気などない米国やロシアなど核武装9カ国に対する非保有国の怒りも、とうに沸点に達していた。良心ある国々が対等なパートナーとしてNGOの声を尊重した。条約交渉会議も、一部を除きNGOに公開された。まさに、市民と熱意ある政府で民主的に作った条約だ。
被爆体験に「理論」
私たち被爆者は、愚直に体験を語ることで核兵器の非人道性を告発してきた。では、再び使われたら熱線、爆風、放射線が人間と地球にどんな被害を及ぼすのか。国際法をどう強化すべきか―。被害者に寄り添いつつ、被爆体験に「理論」を加えたのがICANだ。思い出したくない過去を語り続ける努力は、間違いでも無駄でもなかった、と確信させてくれた。
広島女学院高女(現広島女学院中高)2年だった72年前のあの日、爆心地から1・8キロの第二総軍司令部に動員され被爆した。倒壊した建物からはい出し、地獄絵図の中を逃げた。被爆死した姉と4歳のおいの遺体に兵隊さんが石油をまき「腹はまだ焼けてないぞー」「脳みそは生焼けだぞー」と声を掛けながら竹ざおで転がすのを、ぼうぜんと見届けた。その記憶が長年、私を苦しめた。
学校や集会で体験を語る前日の夜は、最大の被害者である死者を思い、涙が止まらなくなる。祈り、心を整え、証言に臨む。今年3月の条約交渉会議の初日、議場で訴えた。「この交渉は、今を生きる者と将来世代への貢献だ。同時に、広島と長崎で虐殺された数十万人の存在を感じてほしい。幾多の死を無駄にしないで」。その中に、女学院の級友ら351人もいる。
自らの反核運動を振り返ると、高校と大学のYWCA活動などを通じ、出会った師たちが原点にある。
原爆孤児の支援に身を投じる広島流川教会の谷本清牧師の姿に「私も社会の役に立とう」と志した。広島大の森滝市郎先生から学んだのは、洞察力と「グローバル」という言葉の新鮮な響き。広島女学院大の広瀬ハマコ学長から「新憲法の下、日本にも女性が活躍できる時代が来た」と留学を促され、1954年夏に渡米した。
その年の春、マーシャル諸島での米国核実験で第五福竜丸が被災していた。新聞取材を受け「広島と長崎は核実験の終わりになるべきだった」と答えた記事が掲載されると「日本へ帰れ」「真珠湾を忘れるな」と脅迫する手紙が届いた。「敵国の人間」として袋だたきにされる恐怖と孤独に苦しみながら「愛する人たちを犬死にさせることが再びあってはならない。闘い続ける」と決心した。
翌年結婚し、カナダのトロント市教委などでソーシャルワーカーとして勤めた。6年前に他界した夫ジェームズの支えで、反核運動と平和教育に力を注いだ。ICANと出会い、世界はさらに広がった。
核廃絶へ 最高の励まし
ICANへのノーベル平和賞の授与は、廃絶運動への最高の励ましだ。同時に、非人道兵器を「抑止力」として正当化し、禁止条約への参加を拒む国々への痛烈な批判でもある。核軍縮への政治的意思を欠き、いまや国際法違反の兵器に固執する保有国に、怒りばかりが募る。
私が生まれ育った日本と長年暮らすカナダに対しても、である。「唯一の被爆国としてリーダーシップを取る」とは口先だけで、日本は「核の傘」を差し出す米国に追従するばかり。愛する二つの国がこの条約に背を向けていることは、本当に悲しく、つらい。
私は命ある限り、多くの人と手を携えながら核武装国と核依存国に行動を迫り続ける覚悟だ。条約制定という「核兵器の終わりの始まり」から、さらに前へ進まなければならない。
さーろー・せつこ
1932年広島市南区生まれ。被爆後、54年に広島女学院大を卒業し米国留学。結婚してカナダに移住し、トロント大で社会福祉学の修士号取得。75年にはカナダ初の原爆展をトロント市庁舎で開き、市民団体「広島・長崎から学ぶ会」を結成。2006年、市民に与えられる最高位であるカナダ勲章を受章した。ICANと行動を共にし、国連の核兵器禁止条約交渉会議で被爆者として演説した。広島市のひろしま平和大使も務める。トロント市在住。
(2017年11月25日朝刊掲載)