川手健の思想・情熱に光 広島の被爆者運動 草創期支える 語り継ぐ動き 相次ぐ
17年9月19日
広島で1952年に「原爆被害者の会」をつくるなど、作家の山代巴、詩人の峠三吉らとともに被爆者運動の草創期を支えながら、29歳で世を去った川手健(たけし)。運動や文学への情熱と、挫折や絶望にも彩られた短い生涯を語り継ぎ、その思想に光を当てようとする動きがある。(道面雅量)
川手は31年に現在の東広島市で生まれた。広島一中に進み、学徒動員先の東洋工業(現マツダ、広島県府中町)で被爆。忠海中、広島高を経て広島大に入学、在学中に「原爆被害者の会」をつくり、事務局長を務めた。
原爆を「平和の立場から取り上げようとした人々」は、その運動を「当の原爆被害者の中から引き出そうとはしなかった」―。会をつくった思いを、川手はそう書き記す。被爆者の家を一軒また一軒と訪ね、訴えに耳を傾けた。53年には被爆者の手記集「原爆に生きて」を編集、刊行している。
しかし、その後に高揚した原水爆禁止運動の中では孤立を深め、60年に上京した約1カ月後、自死を選んだ。
武蔵大(東京)の永田浩三教授(62)のゼミ生は、川手が残した脚本を基にしたラジオドラマの制作に励んでいる。タイトルは「わたしたちが生き延びた意味について」。若い男女の対話から被爆の苦悩が浮かび上がる約25分の作品だ。
元NHKディレクターでメディア社会学を講じる永田教授が、川手の脚本原稿が広島大文書館(東広島市)に保管されていることを知り、ゼミでの制作を提案した。「川手さんの脚本は断片的な草稿で、物語の基本的な設定から創り上げることになった」が、学生の奮闘でパイロット版の完成にこぎつけた。
今月、ゼミ生17人は広島市を訪れ、永田教授と交流のある「広島文学資料保全の会」会員や被爆体験の伝承に励む人たちに聞いてもらった。「なぜ私は生きているのか。ごめんなさい」―。被爆時に中学生だった女性と被爆の惨状を撮ったカメラマンの男性が、互いに口にする言葉が印象的だ。
脚本を受け持った3年松田亜依香さん(21)は「生きるのを申し訳なく思うなんて理解できないけれど、川手さんたちの実感だったんだと思う。分からない、でも伝えたい。そんな思いで作った」と話す。完成度を高めて来春、大学周辺で開く映画祭で披露する。
「被爆者運動を語る上で、川手さんは忘れてはならない先駆者」と永田教授。「ドラマの草稿には文学への志もにじむ。若き日の情熱を何に注ぐか、学生も自分に引き寄せて考えたと思う」
川手の歩みに触れることのできる文献に「この世界の片隅で」(岩波新書、65年)がある。社会の関心が乏しかった原爆小頭症の患者や家族、沖縄の被爆者たちにも光を当てた8人の筆者によるルポルタージュ集。編者の山代は前書きの冒頭に、この本が「故川手健の方法と不可分に結びついている」と哀悼を込めてつづる。3月に第7刷として復刊された。
生前の山代と交流があり、今は沖縄市に住む作家の山口泉さん(62)は8月、広島市での講演で本書に触れ、「いわゆる『平和運動』に対する川手さんの指摘の重要さ」を説いた。「なぜ川手さんが運動の中で孤立していったのか。その苦しみから何を学ぶかが問われている」
広島県被団協(坪井直理事長)の構成団体、広島市原爆被害者の会も、4年前から回を重ねる「先人を語る会」で川手を取り上げる。10月21日午後1時半から原爆資料館(中区)で開く第6回。掘り起こした資料や証言で、あらためて人物像をたどる。
田中聡司事務局長(73)は「被爆者のありのままの声や姿を運動の原点に据えようという川手さんの主張を、今こそかみしめたい」と語る。
(2017年9月16日朝刊掲載)
川手は31年に現在の東広島市で生まれた。広島一中に進み、学徒動員先の東洋工業(現マツダ、広島県府中町)で被爆。忠海中、広島高を経て広島大に入学、在学中に「原爆被害者の会」をつくり、事務局長を務めた。
原爆を「平和の立場から取り上げようとした人々」は、その運動を「当の原爆被害者の中から引き出そうとはしなかった」―。会をつくった思いを、川手はそう書き記す。被爆者の家を一軒また一軒と訪ね、訴えに耳を傾けた。53年には被爆者の手記集「原爆に生きて」を編集、刊行している。
しかし、その後に高揚した原水爆禁止運動の中では孤立を深め、60年に上京した約1カ月後、自死を選んだ。
武蔵大(東京)の永田浩三教授(62)のゼミ生は、川手が残した脚本を基にしたラジオドラマの制作に励んでいる。タイトルは「わたしたちが生き延びた意味について」。若い男女の対話から被爆の苦悩が浮かび上がる約25分の作品だ。
元NHKディレクターでメディア社会学を講じる永田教授が、川手の脚本原稿が広島大文書館(東広島市)に保管されていることを知り、ゼミでの制作を提案した。「川手さんの脚本は断片的な草稿で、物語の基本的な設定から創り上げることになった」が、学生の奮闘でパイロット版の完成にこぎつけた。
今月、ゼミ生17人は広島市を訪れ、永田教授と交流のある「広島文学資料保全の会」会員や被爆体験の伝承に励む人たちに聞いてもらった。「なぜ私は生きているのか。ごめんなさい」―。被爆時に中学生だった女性と被爆の惨状を撮ったカメラマンの男性が、互いに口にする言葉が印象的だ。
脚本を受け持った3年松田亜依香さん(21)は「生きるのを申し訳なく思うなんて理解できないけれど、川手さんたちの実感だったんだと思う。分からない、でも伝えたい。そんな思いで作った」と話す。完成度を高めて来春、大学周辺で開く映画祭で披露する。
「被爆者運動を語る上で、川手さんは忘れてはならない先駆者」と永田教授。「ドラマの草稿には文学への志もにじむ。若き日の情熱を何に注ぐか、学生も自分に引き寄せて考えたと思う」
川手の歩みに触れることのできる文献に「この世界の片隅で」(岩波新書、65年)がある。社会の関心が乏しかった原爆小頭症の患者や家族、沖縄の被爆者たちにも光を当てた8人の筆者によるルポルタージュ集。編者の山代は前書きの冒頭に、この本が「故川手健の方法と不可分に結びついている」と哀悼を込めてつづる。3月に第7刷として復刊された。
生前の山代と交流があり、今は沖縄市に住む作家の山口泉さん(62)は8月、広島市での講演で本書に触れ、「いわゆる『平和運動』に対する川手さんの指摘の重要さ」を説いた。「なぜ川手さんが運動の中で孤立していったのか。その苦しみから何を学ぶかが問われている」
広島県被団協(坪井直理事長)の構成団体、広島市原爆被害者の会も、4年前から回を重ねる「先人を語る会」で川手を取り上げる。10月21日午後1時半から原爆資料館(中区)で開く第6回。掘り起こした資料や証言で、あらためて人物像をたどる。
田中聡司事務局長(73)は「被爆者のありのままの声や姿を運動の原点に据えようという川手さんの主張を、今こそかみしめたい」と語る。
(2017年9月16日朝刊掲載)