原爆死の解剖記録 克明 広島壊滅直後の19例 広島大院に現存
17年8月5日
故玉川教授 放射線の影響 初期調査
1945年8月6日の広島壊滅の直後に、病理解剖された原爆犠牲者の剖検記録の現存が分かった。広島医専教授の玉川忠太氏が、同29日から10月13日にかけて解剖した19例全てがそろう。解剖は広島逓信病院(広島市中区)そばの板小屋で行われ、原爆放射線の影響をいち早く調べた貴重な記録だ。氏を初代教授とする現広島大大学院分子病理学研究室が保管している。
玉川氏(1897~1970年)は、45年春の広島医専認可に伴い岡山医科大助教授から転任。8月6日は医専疎開先の現安芸高田市にいた。8日に広島市内へ入り、病理解剖の許可を県に求めたが断られた。
「脱毛、皮下溢血(いっけつ)…未知の病変の続発する報に接したので、今は一刻の猶予もならぬ」と27日に再び市内に向かい、岡山医科大後輩で逓信病院の蜂谷道彦院長に協力を要請。「原子症」への注意を病院に張り出した院長も解剖の必要性を感じていた。玉川氏は、暁部隊が病院の裏庭に建てていたバラックで、板壁を自らが外して解剖台などを作った。
1例目は、爆心地から約1・3キロの鉄砲町で被爆して27日に病院で亡くなった26歳の女性。2例目は30日に58歳の男性と、10月13日までに19例を解剖した。復員した病院医師や来援の岡山医科大生らが助手を務め、口述を書き留めた。
剖検記録は、1人ずつの病理解剖学的診断や外表所見、腹腔(ふくこう)・胸腔内概見をはじめ、「多数の溢血斑を見る」と放射線急性障害の症状を克明に残している。
被爆の影響を明らかにする病理解剖は、大本営調査団と8月8日に入った陸軍省調査班の山科清医師が10日、広島沖合の似島検疫所で始め、京都帝大調査団も翌日から同所で当たる。
「玉川資料」は、被爆地の医学者が、未曽有の事態の中で取り組んだ初期調査の苦難も刻む。米軍が率いて10月に入った「日米合同調査団」に標本を接収された際、自らが書き留めていた「標本控」もあった。
「広島市に於(お)ける原子爆弾症の剖検記録19例」の論文は、占領が明けた翌53年に刊行された学術会議の「原爆災害調査報告集」で公表。広島大医学部教授時代は、原爆ケロイド患者の表皮からがんの転化を見つけた。接収された病理・組織標本などは73年に米陸軍病理学研究所から日本へ返還され、旧広島大原医研などが保管した。
今回、原爆放射線医科学研究所被ばく資料調査解析部の久保田明子助教が、関係者の手記とも突き合わせ、一連の「玉川資料」が被爆直後に作成された記録であることを突き止めた。(西本雅実)
「貴重な証拠」
広島大大学院医歯薬保健学研究科長・安井弥(わたる)教授(分子病理学)の話
玉川先生の病理解剖は、人間が原爆でどう亡くなったのかを知らせる貴重なエビデンス(証拠)だ。未知の病態究明に、あのような中で努めたのは病理学者の使命感からだと思う。死亡者のプライバシーに配慮して、歴史的な剖検記録が広島大にあることを広く伝えていきたい。
(2017年8月5日朝刊掲載)