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社説・コラム

『論』 沖縄の歴史を学ぶ 本土に暮らす私たちこそ

■論説委員 森田裕美

 いくつもの地獄を同時に一個所に集めたかのよう―。

 元沖縄県知事の大田昌秀さんが先月、亡くなる直前に刊行した著書で、太平洋戦争末期の沖縄戦をそう言い表していた。

 自らも学徒兵として動員され、大半が亡くなった「沖縄鉄血勤皇隊」の実態をつぶさにまとめた本である。悲惨極まる地上戦の記憶は「一日たりとも忘れることができない」とも記す。悲劇を繰り返さないためにと最期まで伝え続けた姿に、胸が締め付けられた。

 沖縄戦は本土決戦を先延ばしするための「捨て石」作戦だった。県民の4人に1人の命が奪われたともいわれている。

 では残りの3人はどんな戦後を歩んだのだろう。私自身、略史は知りながらきちんと理解してきたのだろうかと自問している。

 本土の人間の思いの至らなさが、沖縄を日米安保の「要石」とする状況を放置してきたのではないか。大田さんの志に触れ、恥じ入る思いがする。

 沖縄は大規模な地上戦が終わった後も米軍に土地を奪われ、基地が造られた。日本の主権回復時には本土から切り離されるという苦難も味わった。戦争放棄をうたう平和憲法下への「復帰」を願い、実現したが、実際はどうだろう。今も在日米軍専用施設の約70%が集中し、米軍の戦争と共にある。基地がある故の事件や事故は絶えず、常に命の危険と隣り合わせにあるといってもいい。

 それだけではない。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題に見られるように、ここのところ政府の沖縄に対する厚顔無恥な態度が目に余る。地元の民意を無視し、埋め立て工事も強行されている。

 今年の「沖縄慰霊の日」。全戦没者慰霊式の平和宣言で翁長雄志(おながたけし)県知事はこう訴えた。「基地の現状、日米安全保障体制の在り方について一人一人が自ら当事者であるとの認識を深め、議論し、真摯(しんし)に考えていただきたい」

 率直な呼び掛けは、沖縄で戦後も続く痛みが日本全体で共有されていないことへの憤りやもどかしさに違いない。家族や友人の無念の死を慰霊する日まで、異議を申し立てねばならない沖縄の人たちが抱える問題の大きさを思った。

 恐ろしいのは、こうした沖縄の物言う姿勢に対し、ネットなどで批判や憎悪表現が飛び交っていることである。昨年北部訓練場の警備の応援に来た大阪府警の機動隊員が抗議活動する人を「土人」となじった件も記憶に新しい。

 なぜそんなことが起きるのか。沖縄史研究を続けてきた早稲田大名誉教授の鹿野政直さん(85)は「歴史のなかで犠牲を強いられた人の痛みを知らず、それらを省みない発言をしても構わないと思わせている社会に、問題の根っこがある」と話す。問題を認識するためにも、沖縄の歴史を正しく知る責任があると説く。

 鹿野さんは一昨年末、「戦後沖縄・歴史認識アピール」を発表した歴史学者の一人だ。沖縄県と政府がその年の9月に辺野古問題で集中協議をした際、菅義偉官房長官が「私は戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からない」などと述べたことへの抗議である。

 「沖縄の歴史を軽んじることは命を侵害すること」「国を守ることは人の命と生活を守ることだ」…。アピールには国内外から3千件以上の賛同の声が寄せられた。

 声は今年4月、勉強会「日米地位協定をよむ会」に結実した。憲法が掲げる平和主義や基本的人権の尊重や地方自治よりも、日米安保条約や日米地位協定が優先されてきた沖縄の戦後史を、「人権」や「いのち」の視点から読み直そうとの試みだ。

 月1、2回、全国から40~60人が東京に集まり、米軍人らの法的地位を定めた日米地位協定を一条一条読む。米軍特権の大きさとそれを恒常的に支える日本政府の現状を知ることで、沖縄の置かれている状況が浮かび上がるという。

 事態を動かすには小さな力かもしれない。それでも歴史を学ぶことで、もう沖縄を「捨て石」にしないと意思表示したい。本土にいる私たちこそ。

(2017年7月6日朝刊掲載)

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