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[三江線 駅物語] 船佐駅(安芸高田市高宮町下船木) 案内板に空爆の記憶

 プラットホーム東端と線路を挟んだ草地。案内板がひっそりと立つ。「中国山地唯一の空爆被災の地」と記された文字が並ぶ。1945年5月5日午前5時40分、米軍の爆撃機B―29が江の川に沿うように6個の爆弾を投下し、うち1個を建設中の船佐駅に隣接する民家に落とした。7人が犠牲になった。

 「ちょうど端午の節句でね。帰省中だった幼子も亡くなった。なぜこんな静かな山あいに落とす必要があったのか」。現在も駅のそばに暮らす、中森松夫さん(85)は、爆弾が落ちて、隣家が火の海となった記憶を鮮明に覚えている。国民学校高等科2年生だった。

 三江線は戦時中のため工事を一時中断していた。プラットホームだけが完成していた。駅の裏には民家が3軒あり、うち1軒に中森さん一家が暮らしていた。食糧難の時代で、「開通の見通しもたたず、砂利も線路もない所にサツマイモや麦を植えていた」と振り返る。

 空襲のあった早朝。「ガラガラ」という耳慣れない飛行機の音が鳴り響き、ふと西の空を見上げた。その後、大きな音がし、外に出てみると、隣家が壊され、火に覆われていたという。空襲は江の川沿いの「鳴瀬堰堤(えんてい)」から、旧発電所の約1キロに及んだが、目的は定かではない。

 現在、三江線との別れを惜しんで駅を訪れる人は後を絶たない。中には案内板まで足を運び、写真に収める人もいるという。「三江線が廃止になると、この地を訪れる人はいなくなる。そうすれば、空襲の歴史も自然と忘れ去られていくのでしょうか」(山成耕太)

(2017年6月8日朝刊掲載)

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